善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

帰属家賃と消費者物価指数

 今年1月に投稿した”福祉は住宅から始まる”でも紹介したエミン・ユルマズ(野村證券、複眼経済塾)の次のような一文を目にして以来、消費者物価指数と住宅価格の関係がずっと気になっていました。

『日本経済は長期にわたりデフレが続き、物価は上がらないという見方が投資や消費の先送りにつながってきました。日銀が掲げるインフレ目標2%は達成が難しいとみられています。しかし、そもそも本当に日本はデフレの状況下にあるのでしょうか。

 政府統計によると、軽自動車の平均価格は過去10年で5割近く上昇。東京カンテイ(東京・品川)がまとめた中古マンション平均希望売り出し価格(70㎡換算)は、東京都心6区で8月まで過去最高値を更新しました。人生の2大消費アイテムである住宅と自動車価格が上昇している以上、一部でインフレが起きていると言えます。

 一方、厚生労働省の賃金構造基本統計調査によると、昨年の一般労働者の平均月例賃金は、2011年比でほぼ横ばいにとどまっています。賃金が変わらない以上、価格上昇が続く住宅と自動車を購入するには、他の消費を削るしか方法はありません。すると国内消費は伸びず、他の品目でのデフレは免れません。インフレが起きていないのではなく、インフレが間違った方向、「資産」において起きているのです。

 金融緩和に伴うカネ余りはモノのインフレを引き起こすことなく、資産インフレを作り出し、格差を拡大させただけでした。その意味で私は、世界的な金融緩和政策は見直されるべきだと考えています』

 日本社会は1980年代後半から1990年代初頭にかけても不動産価格の高騰を経験しましたが、翁邦雄(日本銀行京都大学等)・白川方明(日本銀行総裁京都大学等)・白塚重典(日本銀行慶應義塾大学等)による日本銀行金融研究所ディスカッション・ペーパー”資産価格バブルと金融政策 - 1980年代後半の日本の経験とその教訓”(2000年9月)が述べているように、消費者物価指数でみる限り、物価は落ち着いていました(ただし、1989年以降は消費税導入の影響により緩やかに上昇)。

https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk19-4-9.pdf

バブルが発生した当時の状況を思い起こしてみると、前述のとおり日本銀行はインフレ懸念や金融緩和の行き過ぎとみられる現象に対して、比較的早い段階から懸念を表明していた。また、そうした懸念は当時、日本銀行だけでなく若干のエコノミストからも表明されていた。しかし、物価指数でみる限り物価は落ち着いており、インフレ懸念論者は自らが表明していた「インフレ懸念」 と「物価の安定」という現実とのギャップに苦しんでいた。さらに、資産価格の上昇についても、それがどのような意味で問題を引き起こすのか、共通の理解は存在していなかった

(図表:総務省消費者物価指数」より参議院予算委員会調査室が作成)

 不動産市場にバブルが発生していたにもかかわらず、なぜ消費者物価指数は落ち着いていたのでしょうか。

 そこで消費者物価指数における住宅関連支出の取り扱いについて、2021年2月22日に総務省統計局物価統計室が作成した”消費者物価指数(CPI)の2020年基準ウエイトについて”で確認したところ、2019年時点において、大分類「住居」(2,012/10,000)は「食料」(2,628/10,000)に次いでウエイトが大きく、なかでも小分類「持家の帰属家賃」は全ての小分類項目のなかで最大のウエイト(1,450/10,000)を占めていました。

https://www.soumu.go.jp/main_content/000734834.pdf (p14~p15)

 「持家の帰属家賃」とは、『国民経済計算における帰属計算の一つ。もともと実際に家賃の受払いを伴わない自己の持ち家についても,通常の借家や借間と同じようなサービスを生んでいるとして評価した帰属計算上の家賃』(ブリタニカ国際百科事典)ですが、問題はどうやらその推計方法にあるようです。

 帰属家賃の推計方法については、”季刊住宅土地経済”の2013年春季号No.88に掲載された清水千弘(日本大学)の優れた研究”持ち家の帰属家賃の測定”があり、”季刊住宅土地経済”編集部がその要点を紹介しています。

https://www.hrf.or.jp/app/Display/popup/?table_id=table2&id=88

 論文についてはhttps://www.hrf.or.jp/webreport/kikan_bn/pdf/jyukei_088.pdf (p10~p19)を参照。

住宅が日本の国富の大きなシェアを占めていることはよく知られている。このため、住宅の価値を的確に把握することが国富を知るうえで重要となる。その方法として、経済統計では帰属家賃を求めて計算している。帰属家賃とは、持ち家に対して、所有者が自分の住宅に対して払うと想定される家賃額である。持ち家が賃貸住宅として市場に出された時の家賃額ということになる。もちろん、そのような家賃は実際には払われないので、推計するしかない。

 清水論文(「持ち家の帰属家賃の測定」)では、適切な持ち家の帰属家賃を推定する方法を探求している。帰属家賃を推計する主な方法としては、近傍の賃貸住宅の家賃から推計する近傍(等価)家賃法と住宅を保有することの機会費用から推計するユーザーコスト法とがある。

 清水論文では、近傍家賃法で推計した結果、推計された帰属家賃と県民経済計算による持ち家の帰属家賃とは、時期によっては10倍の乖離があったことを示している。この理由として、賃貸住宅市場と持ち家市場における住宅品質に差があることに加えて、住宅価格と家賃の変動は完全には連動しておらず、結果としてバブル期など価格変動が大きい時には大きく乖離してしまうことを指摘している。また、ユーザーコスト法では、資産価格変動に大きく依存してしまい、不自然に負の値になったりする問題がある。

 そこで、清水論文では、ディワートにより提唱された、両方の方法を折衷させた機会費用を用いる方法で推計した。ディワートの方法とは、ユーザーコストと近傍家賃法による家賃の最大値を機会費用と考えて、計算する方法である。ユーザーコスト法による不自然な負の値の弊害を減じることができるのが利点となっている。

 ただ、この方法でも時期によっては3.5倍の乖離が見られることを明らかにしている。国民経済計算や消費者物価統計で大きなウェイトを占める帰属家賃が、いかに推計が困難な対象であるかを明らかにしたという意味で画期的な研究である。

 そもそも、帰属家賃という概念は、市場で観測される統計量ではなく、あくまで仮想的な概念である。そのため、正解がない問題に対して、精度を求めねばならないという難しい状況にある。その意味では、経済統計において、帰属家賃よりも信頼性の高い別指標を用いるほうが良い可能性を示唆しているとも言える。また、学問的には、まだ大きく改善の余地がある挑戦しがいのある分野であるとも言えるだろう。

 今後のさまざまな討議を呼び起こす可能性のあるエポックメイキングな論文であると言えよう

 要するに、日本が消費者物価指数の算定に当たって採用している、賃貸物件の家賃から帰属家賃を推計する「近傍(等価)家賃法」には問題が多く、実際よりかなり低めに推計されていると指摘しているのです。2022年4月の消費者物価指数は前年同月比で+2.1%と、13年半ぶりに日銀が物価安定目標として掲げる+2%を上回りましたが、近年におけるマンション価格や建築単価の高騰を踏まえれば、実際の帰属家賃は大幅に上昇している可能性が高く、従って消費者物価指数(総合)の上昇幅は更に大きくなっていると推測されます。

 

 日銀は5月23日、3月に開催した「コロナ禍における物価動向を巡る諸問題」に関するワークショップの概要を公表しました。

https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2022/data/ron220523a.pdf

 ワークショップは、2つのセッションと1つのパネルディスカッションから構成されていますが、第2セッションのテーマは”消費者物価におけるサービス価格 - 家賃等を中心に”で、帰属家賃の問題を中心に討議されました。

 まず、報告者である岩崎雄斗(日本銀行企画局企画役)は、『米欧の考え方に倣った計測方法に従うと、わが国の消費者物価上昇率は現状よりも高めとなり得る』とした上で、わが国が採用している「近傍家賃法」の問題点を整理しています。また、ユーロ圏で導入が予定されている「取得額測定法」を紹介し、『同手法は、住宅価格をより直接的に反映する方法であり、その長所として、人々の実感により適合した指数を作成できる可能性や、規制などの賃貸市場の構造に影響されにくいことを指摘した。同手法をわが国に適用した場合、住宅価格が上昇している足もとを中心に消費者物価の前年比がはっきりと上振れる可能性』を示唆しました。

 先ほどの清水は指定討論者として登場し、『住宅サービスの計測が国際的に注目されている理由として、ウエイトが大きい点や、住宅市場は資産市場と財市場の最も重要な結節点と認識されている点を挙げた。・・・わが国では近傍家賃法は必ずしも望ましくない可能性があると指摘したうえで、代替的な推計方法として「機会費用法」を紹介した。同手法は、近傍家賃法で推計された費用と「ユーザーコスト法」で推計された費用の大きい方を持家の機会費用とみなす方法であり、理論的 には最も望ましいとされているユーザーコスト法の実務的な欠点を補うものだ』と述べています。

 また、外部参加者である植田和男(東京大学共立女子大学)が、『理論的には、リスクプレミアム等が低下しているもとでは、住宅価格の上昇と家賃の低下は併存し得る』と発言したのを受けて、『持家市場と賃貸市場が分断されていることが背景にあるとの見方を示したうえで、こうした分断があるもとでは、近傍家賃法の適用は望ましくない』と強調しました。

 翁・白川・白塚たちの問題提起から30年余り、ようやく資産市場と財市場との間に横たわるブラックボックス帰属家賃の推計方法に光が当てられた意義は極めて大きいと言えるでしょう。

 ところで、問題の多い「近傍家賃法」を採用していることにより消費者物価指数(総合)が実際より大幅に抑制されているという認識が広がれば、当然の帰結として、金融政策にも大きな影響を与えることは言うまでもありません。黒田総裁や若田部副総裁の任期切れが迫っているこのタイミングで、帰属家賃の推計方法をワークショップのテーマに選んだのは、あるいは政策転換に向けた布石なのかもしれません。

 というのも、次期総裁の有力候補の一人とされる雨宮正佳(日本銀行副総裁)が、ワークショップの開会挨拶を以下のように締めくくっているからです。

https://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2022/data/ko220329b1.pdf

日本のインフレ率が米国を下回る状況は、1990 年代後半のデフレ期から始まった現象ではなく、第2次オイルショック期以降、一貫して続いている・・・1980 年頃を境に、日米間でインフレ率の逆転が生じ、その後も1980 年代後半の景気過熱期も含め日本のインフレ率が米国をコンスタントに下回り続けたのはなぜかについて、腑に落ちる説明はなかなか得られていません。 

 コロナショックに伴う各国間の物価変動の違い、そして長期的にみた日米間のインフレ格差などをみるにつけ、物価に関する我々の知識は、依然として限られているという認識を新たにします。コロナショック以降、中央銀行の間では、「Humble」であるべき、という言葉がキーワードとなっており、こうした物価に対する私の認識は、各国当局者の間でも概ね共通しているのではないかと感じています。わが国の物価は米欧対比なぜ弱いのか、その要因は構造的なものか、それは将来変化しうるものか、といった点について、従来の見方にとらわれず、現実のデータに「謙虚」に向き合うことが重要だと思います

 「日米間のインフレ格差が何に起因するのかも分からずに異次元緩和を推し進めてきたのかよ!」とツッコミを入れたくなるのはさて置き、現実に謙虚に向き合うことによって、金融政策の速やかな転換が図られることを期待したいと思います。