善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

福祉は住宅から始まる

 この数ヶ月、1990年代以降の日本の長期的な衰退に関する論文や書籍、コラムなどを読み漁っていたのですが、その過程で住宅に関わる面白い論考をいくつか見つけました。

 

 一つ目は、大阪大学社会経済研究所教授だったチャールズ・ユウジ・ホリオカ(大阪大学スタンフォード大学神戸大学など)の”日本の「失われた10年」の原因 : 家計消費の役割”(2006年6月、大阪大学社会経済研究所)というディスカッション・ペーパーです。

https://www.iser.osaka-u.ac.jp/library/dp/2006/DP0667.pdf

 この小論においてホリオカは、

 

経済成長の足かせになったのは投資 (民間および政府の固定投資および在庫品投資)であり、1991-2003 年の間、投資関連の3つの構成要因はGDPより低い成長率を示しただけではなく、負の成長を示した政府固定投資の成長率は -0.24%であり、民間固定投資の成長率は-0.59%であり、在庫品投資の成長率は(最後の年の値が負だったため)大きく負だったが、計算できない。

民間固定投資の内訳をみてみると、民間の住宅投資の減少 (-2.48%) は設備投資 (-0.14%) のそれよりも遥かに顕著であり、民間の住宅投資の停滞が日本経済の長期低迷の主因 だったかのように見える

・・・政府固定投資,在庫品投資,民間固定投資の実質GDP成長への寄与度はすべて負であり、それぞれ -1.26%, 、-4.35% および -11.49% であり、民間固定投資の寄与度(の絶対値)は特に大きかった。民間固定投資の内訳を見てみると、民間住宅投資が民間固定投資の負の寄与度の 81%を占めており、この結果も民間住宅投資が日本経済の長期低迷の主因であることを示唆する

 

 と述べています。

 「失われた10年」の要因をめぐっては、Hayashi & Prescott(TFP上昇率の低下)やリチャード・クー(バランスシート不況)をはじめとする様々な論考がありますので、近いうちに取り上げたいと思っているのですが、近い将来、住宅問題が政策論争の中心的なテーマになるのではないかと考えていたこともあって、民間住宅投資の低迷が主因であるというホリオカの研究に興味を惹かれた次第です。

 また、この一節を読んで、なぜ小泉政権三位一体改革により公営・公社住宅に市場原理を導入し、実質的に公営・公社住宅を建設できないようにしたのか、その背景が理解できたように感じました。つまり、ディベロッパーをはじめとする住宅関連産業を支援することにより民間固定投資を回復させ、ひいては長期低迷からの脱却を企図したのではないかと思えるのです。その結果、”居住の貧困”(本間義人、2009年11月、岩波新書)の表現を借りれば、住宅政策は『社会政策から経済政策へと変容』したのでした。そしてこの政策転換は、のちのち大きな問題を招来することになるだろうと考えています。

 

 二つ目は、日本経済新聞が2021年11月28日に配信したエミン・ユルマズ(野村證券、複眼経済塾)のコラム”世界経済を揺るがすインフレと中国リスク- エミン・ユルマズの未来観測”です。

 このなかでユルマズは、未曾有の金融緩和が住宅と自動車という代表的な2つの耐久消費財にインフレをもたらしていることを指摘しています。

 

 『日本経済は長期にわたりデフレが続き、物価は上がらないという見方が投資や消費の先送りにつながってきました。日銀が掲げるインフレ目標2%は達成が難しいとみられています。しかし、そもそも本当に日本はデフレの状況下にあるのでしょうか。

 政府統計によると、軽自動車の平均価格は過去10年で5割近く上昇。東京カンテイ(東京・品川)がまとめた中古マンション平均希望売り出し価格(70㎡換算)は、東京都心6区で8月まで過去最高値を更新しました。人生の2大消費アイテムである住宅と自動車価格が上昇している以上、一部でインフレが起きていると言えます。

 一方、厚生労働省の賃金構造基本統計調査によると、昨年の一般労働者の平均月例賃金は、2011年比でほぼ横ばいにとどまっています。賃金が変わらない以上、価格上昇が続く住宅と自動車を購入するには、他の消費を削るしか方法はありません。すると国内消費は伸びず、他の品目でのデフレは免れません。インフレが起きていないのではなく、インフレが間違った方向、「資産」において起きているのです。

 金融緩和に伴うカネ余りはモノのインフレを引き起こすことなく、資産インフレを作り出し、格差を拡大させただけでした。その意味で私は、世界的な金融緩和政策は見直されるべきだと考えています』

 

 つまり、デフレ脱却を旗印に進められてきた金融緩和政策が資産インフレを惹起し、かえってデフレを加速させているのではないかという指摘です。

 ユルマズのこの指摘は、われわれの実感にも合致しています。かつては住宅ローンを組んだ直後こそ返済負担が重くのしかかるものの、定期的に訪れる調整インフレが名目賃金を押し上げてくれたため、ローン返済の実質的な負担感は徐々に軽くなっていったものでした。しかし今はローン負担がいつまでも重くのしかかり続けており、次のライフステージ(子供の教育費や老後資金など)に備えるために、住宅・自動車以外のモノやサービスへの支出を倹約しなければならない暮らしが延々と続いているというわけです。

 加谷珪一(経済評論家)も2020年10月21日にNewsweekが配信したコラム”返済が一生終わらない - 日本を押しつぶす住宅ローン問題の元凶は?“において、ユルマズと同様の危機感を表明しています。

https://www.newsweekjapan.jp/kaya/2020/10/post-117.php

日本経済新聞社住宅金融支援機構のデータを使って行った調査によると、2020年度における住宅ローン利用者が完済を予定している平均年齢は73歳だった。20年間で完済年齢は5歳上昇したが、直接的な理由は住宅取得年齢が上がったことと、ローン期間が延びたことの2つである。だが、両者の背景となっているのがマンション価格の高騰であることは明らかだ』

『本来なら、都市部において低価格で良質な賃貸住宅を提供できるよう政策を転換すべきだったが、新築マンションの建設需要という目先の利益を優先し、こうした政策は後回しにされた。上限年齢を引き上げた結果、老後破産が増えれば、最終的にそのツケを払うのは国民であり、追加負担が発生するのは同じである』

 

 なお、加谷がこのコラムを執筆した2020年11月の時点では、マンションの建設物価建築費指数(2011年平均=100)は125程度で、木造住宅建築費指数118程度を大幅に上回っていましたが、そのご木造住宅の建築費指数が急騰したため、2021年11月時点での指数は共に130強となっています。

 

 三番目に注目したのは、2022年1月9日に幻冬社ゴールドラインが配信した坂本貴志(厚生労働省内閣府、三菱総研、リクルートワークス研究所)のコラム”生活費「月15万円」の単身高齢者 - 「生活保護受給者」増加で日本社会に暗雲が立ち込める”です。

坂本は単身高齢者の増加が、近い将来に大きな社会問題を惹き起こすと警告しています。2021年8月1日に投稿した”労働法のない世界”でも述べたように、正規雇用者数が増加を始めた1990年頃から、50歳時の未婚割合は増加の一途をたどっており、2035年には男性で29.0%、女性でも19.2%になるものと推計されています。

          [男性]    [女性]
     1990年    5.6%      4.3%
     1995年    9.0%                  5.1%
     2000年          12.6%                  5.8%
     2005年          16.0%                  7.3%
     2010年           20.1%                10.6%
     2015年          23.4%                 14.1%
     2020年          26.6%                17.8%
     2025年          27.4%                 18.9%
     2030年          27.6%                 18.8%
     2035年          29.0%                 19.2%

 

 坂本は、非正規雇用は低年金をもたらし、低年金は生活保護に直結すると指摘し、近い将来これが更なる財政悪化を惹起することになるとして、以下のように警告しています。

 

未婚非正規の将来はどうなるのだろうか。生涯未婚時代を生きた人が歳をとれば、その人たちは単身の高齢者になる。近年急速に進んだ未婚化は、近い将来に単身高齢世帯の急増という帰結をもたらす。厚生年金保険の受給額は在職時の収入に応じて決まる。このため、働き盛りの頃を低賃金の非正規雇用として過ごしてしまえば、年老いた時に十分な年金をもらうことはできない。そして、結婚をしていない彼らには頼るべき配偶者も子どもも存在しない。そうなると、彼らの老後に待ち受ける現実は、体力の続く限り働き続けなければならないという未来しかない。多くの人は高齢になっても働き続け、なんとか生計をやりくりすることになる

 総務省「家計調査」の2018年の集計によれば、単身高齢世帯の支出額は月15万6894円とそう多くはない。厚生年金保険の受取額が月10万円だとしても、細々と仕事をしていけばなんとか食いつないでいくことはできる。・・・しかし、すべての人が永遠に健康に働くことなどできない。彼らが働けなくなったとき、頼るべき人もおらず年金も不十分となれば、最終的には生活保護で生計を維持せざるを得なくなるだろう

将来の日本においては、年金財政や医療保険財政の悪化とともに、生活保護が国家財政の更なる悪化を引き起こすことになるはずだ。すでにその兆候はみられている。生活保護を受給している人の数は2018年に206万9000人となっており、長期的に増加傾向にあるのだ([図表]参照)。生活保護受給者数は若者や中堅の間でも増加傾向にあるが、その最も大きな要因となっているのが高齢者の増加である

 

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 ただ坂本は、官庁エコノミスト出身らしからぬ見落としをしています。東京23区における75歳単身者の最低生活費は、125,600円(冬期加算を除く)ですが、この金額には住宅扶助費53,700円が含まれており、生活扶助費は71,900円に過ぎません。もし、単身の高齢者が家賃負担の少ない都営住宅や区営住宅に入居することができるなら、月額10万円の年金収入だけでも生活保護を受給せずにやっていけるのです。

 3年ほど前、国土交通省住宅局安心居住推進課の課長補佐から、北欧では「福祉は住宅から始まる」と言われているという話を聞きました。いま求められているのは小手先の居住支援策ではなく、三位一体改革により歪められた住宅政策をラディカルに見直し、国民の共有資産として、公営住宅の建設を推し進めることではないかと考えています。