We Shall Overcome
3月11日を迎えるたびに、なぜかこの歌が聴きたくなります。
まだ希望という言葉が身近にあった1963年8月28日に行われたワシントン大行進で、若き日のジョーン・バエズはこの歌を歌い、キング牧師はあの有名な" I Have a Dream "という演説を行いました。しかしこの映像にも描かれているように、公民権運動の原動力となったのは、つつましく、しかし勇気をもって生きる無名の人々の献身でした。
いま我々は希望から遠く離れた時代を生きていますが、それでも21世紀を希望の世紀にするために、残りの人生をすごしていきたいと考えています。
Once Upon a Time in Monsoon Asia (2)
日付がはっきりしている最も古い記憶は、母方の祖母の死にまつわる、まだ70%超の人々が自宅で死を迎えていた時代のものです。
白熱球がともる大広間に敷かれた純白の蒲団によこたわった祖母を、親族や近隣の人々、友人たち、そして看護師を従えた医師が取り囲んでいました。やがて荒々しい息遣いが途絶えると、瞳孔をのぞきこんだ医師が腕時計に目をやり、臨終を宣言しました。
その刹那です。よく磨かれた板戸の陰からこっそり覗きこんでいた僕の魂は、茅葺の大屋根をつき抜けて暮れなずんでいる冬の空に舞いあがり、悲嘆の声をあげて死に水をとる人たちを眺めやりながら、「蟻の群れにそっくりだ」と不謹慎な感想をいだいたのでした。1957年12月31日の夕刻のことです。そして生後3才9か月だった幼子はその夜、おねしょを漏らしたのでした。
農山村で暮らしていた祖父母世代の人たちの殆どがそうだったように、産湯に浸かった生家からほど近い場所で死に水をとってもらった祖母は、自分が64年の人生を過ごした土地を見わたす集落墓地に葬られました。
余談ですが、海辺の町に嫁いだ祖母の二女の長男、つまり当時8才だった兄はこの日、何日も帰ってこない母親を恋しがって泣き続ける5才の次姉の手を引いて7km余りの田舎道を歩きとおし、祖母宅に姿を現して一堂を驚かせたというエピソードも残っているのですが、なぜか僕は憶えていません。
祖母の死にまつわるこの記憶は深く心に刻まれたようで、幾度となく夢にみたものでしたが、やがて新しい記憶の下に埋もれていきました。
ところが2月22日の未明、ほぼ半世紀ぶりにこの夢が蘇りました。ここ数年、地縁・血縁を基盤とした共同体から追放された人々のことや共同体そのものの解体、そして人間にとっての幸福とは何かといったことについて考え続け、隘路にはまりこんでいたこともあって、この夢は何らかの啓示なのではないかという思いが募り、急きょ常磐自動車道をたどることになりました。
20数年ぶりにお参りした集落墓地は冬枯れた森のはずれにあって、そこからは段々に連なる水田越しに母の生家を望むことができました。レベル7の事故が発生した福島第一原子力発電所から30km圏内に位置しているため、除染作業の影響により水田の区画割は大きく変わっていましたが、その先に広がる森や屋敷林は昔日の面影をとどめていました。
墓所の階段に腰を下ろしてもの思いに耽るうちに、二つの考えが脳裡に浮かびました。
一つは、祖母が体験した死と、そう遠くない時期に自分が体験するだろう死との間には、跳び越えることのできない懸隔があるのではないか - より直截にいうならば、伝統的な共同体のなかで生涯を終えた祖母は、自分の血が太古から受け継がれてきたものであり、これからも連綿と持続していくことを実感していたのに対し、その共同体から遠く離れ、おそらくは病院の天井を眺めながら生涯を終えることになる自分は、血脈から切り離されて消えてゆくのだという諦念のなかで「孤独な死」を死んでいくのではないかというものです。
2024年の春にFay Bound Albertiの "A BIOGRAPHY OF LONLINESS" を読んで以来、心のなかで燻りつづけている「孤独」をリアルに噛み締めた瞬間でした。
もう一つは、1954年の早春に生まれた自分は、日本社会が変貌していく様々な現場の真っ只中にたまたま居合わせ、いわばエスノグラフィーの調査員のような人生を送ってきたのではないかという思いでした。
大塚久雄(東京大学)が "欧州経済史" (1973年、岩波書店)において述べている
『「資本主義」に先立つ生産諸様式においては、そのいずれにあっても、経済生活の一般的な土台をなすものが商品生産ではなく、「共同体」Gemeinde(土地占取のための単位集団)である。諸個人は共同体の一員として土地を占取し、この土地によって生産活動を営み、生活需要をみたしていく。もちろん、こうした基本的関係を補充して多かれ少なかれ商品生産もまた行われるが、このばあいには商品生産の方が派生的・従属的に地位にたっている』
という一節を借りるならば、資本主義に先立つ暮らしが続いてきた共同体が、農業革命や高度経済成長、生活革命、都市化、少産少死・少産多死への人口転換、そしてLost Decadesといった激流に翻弄されながら解体されていった歴史を、追われるようにして共同体を後にした人々が向かった「資本主義」の世界で彼らを待ち受けていた宿命を、そして共同体を失って漂流する人々がたどり着いた幻の共同体について描かなければならないと心に決めた次第です。
次回から与太話の本編が始まります。第一章のタイトルは"Deportee"、故郷を追われた人々の物語です。
下にアップした写真は3年ほど前、埼玉県飯能市の顔振峠(かあぶりとうげ)近くにで見かけた集落墓地です。

集落墓地を見かけるたびに、1989年に放映された "すばらしい世界旅行"の"ニューギニア横断記 - ミイラの村と黄金熱"で目にしたイメージが蘇ってきます。
パプアニューギニアのアンガ族がミイラにした死者を椅子に縛りつけ、村を見おろす岩棚に弔うまでを記録したもので、祖先崇拝や集落墓地のルーツを彷彿とさせるものでした。
Once Upon a Time in Monsoon Asia (1)
今回から、2022年8月7日にアップした記事"斥候よ夜はなお長きや"の最後で予告した『1980年代以降、日本社会に何が起こったのか、そしてこれから何が起ころうとしているかについての与太話』を披露したいと思います。
タイトルは"Once Upon a Time in Monsoon Asia"。高度成長期が始まる直前の1954年、東北地方南部に位置する寒村で生まれ、高度成長期を経て安定成長期、バブル期、そしてバブル崩壊とそれに続く長期停滞期を目撃してきた人間の眼を通して、われわれの社会に何が起こったのか、そして何が起ころうとしているのかについて、論述したいと考えています。
「細部に神は宿る」という言葉を支えに仕事をしてきた人間として、未読の資料が山積みになっている状態で書きはじめることについては、忸怩たる思いを禁じ得ないのですが、この夏、身体に変調を覚えて検査を受けたところ右脳梗塞を発症していることが判明、いまのところ後遺症はほとんどないものの、再発率が低くはない病気なので、言語能力が損なわれる前にと慌てて取り掛かった次第です。したがって、ブリコラージュ的なものになってしまうかもしれません。
この小論は、以下の3つのテーマをめぐって展開されます。
① バランスシート不況の背後で - 日本型生産システムの解体プロセスとしてのLost Decades
日本のLost Decadesについて 最も説得力のある議論を展開したのは、Richard C. Koo(野村総合研究所)でした。
4年前の記事"実験の代償"などでも紹介した、早川英男(日本銀行−富士通総研-日本財団)が富士通総研時代に書いた”MMT(現代貨幣理論) : その読解と批判”(2019年7月)の補論”米国主流派経済学者による財政重視論について”からの一節を再掲します。
『MMTを巡る論争の陰に隠れてやや目立たない印象はあるが、米国では最近になってサマーズ、クルーグマン、ブランシャールといった大物の主流派経済学者たちが(MMTは批判しながら)財政政策の重要性を訴えるようになっている。基本的には、数年前からのサマーズらによる「長期停滞論」を背景としつつ、自然利子率が低下して金融政策が有効性を失っている状況では、マクロ安定化政策として財政政策がより重要になっているとするものだ。・・・とくに、元MIT教授でIMFのチーフエコノミストをも務めたブランシャール氏が今年1月の全米経済学会の会長講演において、低金利環境下では財政政策を積極的に活用すべきだと訴えたことは多くの人々の注目を集めた。
こうした米国主流派経済学者による財政重視論に対する筆者の率直な印象は、驚きと落胆であった。と言うのも、金融政策がゼロ金利制約に直面している(近づいている)時に、マクロ経済政策として財政政策が重要になるというのは、当たり前過ぎるからである(「流動性の罠」について学んだ後なら、学部1年生でもそう答えるだろう)。にもかかわらず20年前、彼らは日本に対して「ゼロ金利でも、量的緩和やインフレ目標でデフレを克服できる」と主張していたのだ。
その後、彼らが意見を180度変えた背景に大きな理論的イノベーションがあった様子はない。要は、20年前の米国はグリーンスパン元FRB議長が「マエストロ」と呼ばれた時代で、金融政策の効果への過信(景気循環は終わったというgreat moderation論さえ拡がっていた)があった一方、現在はリーマン・ショック後の非伝統的金融緩和の効果が限定的だったという事実に学んだということだろう。現に、ブランシャール講演も大部分が「今後暫くは金利水準(r)が名目成長率(g)を下回る」という氏の予想、つまり環境変化の説明に当てられている。日本人エコノミストとしては、「彼らはいつも自国の環境だけを考えていて、日本の実情など眼中にない割に、政策提言だけは安易に打ち出してくる」という印象を持たざるを得ないだろう・・・
この点は、20年前にリチャード・クー氏が展開していた議論を視野に収めることで、より明確にすることができる。当時、クー氏は「バブル崩壊後のバランスシート不況では資金需要が無くなってしまうので、金融緩和をしても効果はない。財政出動が必要だ」と主張していた。この「資金需要が無い」という部分を「自然利子率が低い」と置き換えれば、現在の米国主流派の議論と同じであり、かつ「自然利子率が低い」のは「低金利でも投資不足」という意味だから、「低金利でも資金需要が無い」のと全く同じことである。しかも、クー氏はMMT論者のように「財政赤字の制約はインフレだけ」と主張していたのではない。「金利が上がって来れば金融政策が復活するので、財政は引っ込んで良い」と述べていた訳で、金利を軸に財政政策の有効性を判断する点でも、米国主流派と同じである。つまり、現在の米国主流派は20年前のリチャード・クー氏の立場から一歩も前進していないということだ』
近年、中国もバランスシート不況に陥っているという記事を連日のようにみかけるようになりましたが、一方で、「バランスシート不況」という疾病の存在を知っている中国は、政府が適切な景気刺激策を講じてバランスシート不況から脱するだろうという期待も高まっているようです。
また、中国政府が繰り出す政策も、バランスシートの修復を意識したものが目につくようになりました。
しかし、そもそも日本のLost Decadesはバランスシート不況によりもたらされたものなのでしょうか。
Koo自身も認めているように、2005年ないし2006年にはバランスシートの修復が完了したにもかかわらず、日本社会は停滞から脱却できませんでした。なぜか?
おそらくその疑問に衝き動かされたのでしょう、Kooは2019年、"「追われる国」の経済学 - ポスト・グローバリズムの処方箋"(東洋経済新報社)を上梓しましたが、本人の意気込みとは裏腹に、なぜ日本だけが今なお衰退し続け、より貧しくなっているのかという謎を解き明かしてくれるものではありませんでした。
この小論ではまず、バランスシート不況の背後で、高度経済成長の原動力となった日本型生産システムが、ソ連圏の崩壊や中国の改革・開放政策、輸送革命、IT革命などの進展により競争力を喪い、Lost Decadesの出現にいたったことを明らかにしたいと考えています。
② Monsoon Asiaの奇跡と未富先老社会
2つ目のテーマは、この小論の核となるものです。
Kay Review で知られるJohn Kay(オックスフォード大学等)は"市場の真実 - 「見えざる手」の謎を解く"(2007年、中央経済社)の日本語版向けの序文において、次のように述べています。
『一つの支配的な経済モデルというものが存在するだろうか。すべての社会が20世紀末の米国の経験に基づいたモデルを採用しなければ、経済的に失敗してしまうのだろうか。・・・本書の主張はユニバーサルなモデルなどないということである。繁栄している国はどこも市場経済に基づいているが、その市場は社会、政治そして経済のコンテクストにしっかりと根付くことによって機能している。
・・・1950年以前、世界の豊かな国は西ヨーロッパの国々か、経済史家アンガス・マディソンが「西欧の分家」と呼んだ国々だったが、それらほとんどの国の政治と経済の制度は、米国のように西ヨーロッパから直接伝えられたものだった。これに対する明白な例外は第一に日本だった。ヨーロッパと北アメリカで成功した制度の重要な特徴を借りてはいたが、明らかに異なる文化のコンテクストの中にそれらを組み込み、さらに発展させて急激な成長を遂げた。そして他のアジア諸国はこの日本の例に倣った。・・・』
"金融に未来はあるか"(2017年6月、ダイヤモンド社)や"強欲資本主義は死んだ"(2023年2月、勁草書房)の著者で、最も信頼する経済学者の一人であるKayの『ユニバーサルなモデルなどない』という言葉は心強い限りです。
では、西欧やその分家とは「異なる文化のコンテクスト」とは何なのか?
この問いに向き合っていた3月、未明の微睡みのなかを、モンスーンという言葉が駆け抜けていきました。同時に、1960年代から生産拠点を海外に展開してきたメーカーの史料館を設計していた20数年前、時代背景を抑えておくためにHarry T. Oshima(ハワイ大学)の"モンスーンアジアの経済発展"(1989年、勁草書房)を読んだことを思い出しました。
仕事に関連する資料は書籍を含めて殆どを廃棄してしまっていたので、あわてて求め直し、併せて開発経済学やモンスーンアジアの基幹産業だった稲作農業、農村と労働市場などに関する書籍や資料を渉猟することになりました。
この小論で展開しようとしているストーリーはおおよそ次のようなものです。
日本から朝鮮半島、中国、東南アジアをへてインド亜大陸東部へと続くモンスーンアジアでは、小麦やトウモロコシ等の畑作に較べて、人口保持力が極めて高い稲作が営まれてきた。
人口保持力の高い稲作は同時に、田起こしや田植え、稲刈り、灌漑施設の管理などに集中的な労働力を要する農業であったため、農村には膨大な労働力がプールされていた。
1950年代から60年代にかけて、稲作に「緑の革命」とも呼ばれる技術革新(多農薬や多肥料、機械化、稲の品種改良等)が起きた結果、農村にプールされていた労働力が解き放たれることになった。豊かさを求める人々は奔流となって都市に向かい、奇跡ともいうべき高度経済成長を支える安価な労働力となった。
しかし、都市へと向かったすべての人々が、豊かな暮らしを手に入れたわけではなかった。終身雇用や年功序列賃金等が保証された近代的な産業部門や官公庁などの職に就くことができたた人々は全体の1/3程度であり、残り2/3のうち労働者の流動性が高く給与水準が低い中小企業部門に1/3が職を得たに過ぎなかった。
残り1/3の人々はどこへ行ったのか。隅谷三喜男(東京大学)が「雑業層」と呼び、江口英一(中央大学)が「低所得不安定層」と命名した、生活を営むに足りる報酬を得られない人々は、都市に新たな過剰労働力の巨大なプールをつくり、高度成長期を超えて現在に至るまで存続しており、総資本にとって極めて都合の良い労働市場を支え続けてきた。
しかし、より安価な労働力を動員できる発展途上国に追撃されると、高度経済成長は終焉し、長期的な停滞に陥ることを余儀なくされた。緑の革命以降に起こった急速な人口転換と都市化が清算不能な負債となって未来にのしかかり、かつて夢見られていた「成熟社会」ではなく、'成熟社会 - 新しい文明の選択"(1973年3月、講談社)の著者であるデニス・ガボール(ロンドン大学等)の言葉を借りるならば、「吐き気をもよおすような例に満ちた悲しい物語」が綴られるようになった。
これは日本社会のみに起こったことではなく、モンスーンアジアに共通する運命といってよい。台湾、韓国、そして中国などでも、似たような物語が展開されていくのである。なお、中国社会ではこのデストピアを「未富先老社会」と表現している。
しかし、それでもまだ希望は息づいている。
③コミュニティ・ロストと孤独
最後のテーマは「豊かさとは何か」「幸福とは何か」という問題にかかわるものです。
52年前に受講した科学史のテキストは、"パラダイス・ロスト(失楽園)と蒸気機関"といったタイトルだったと記憶しています(ネットで検索してもヒットしないので、似たような内容の書籍をご存知の方がいらっしゃったら、ぜひご一報ください)。
当時はあまり深く考えることなく読み飛ばしてしまったのですが、この5月、友人に誘われて受講した公開講座"イスラームの孤独と悲しみ"において、コメンテーターの一人が紹介した、Fay Bound Alberti の「現代のエピデミックとしての孤独」という言葉を聴いた瞬間、科学史のテキストに登場したパラダイスは、農村コミュニティだったのではないかという思いに囚われたのでした。
Albertiの著書"A Biography of LONELINESS"(Oxford University Press , 2019年)をGoogleの助けを借りながら読むと、産業革命が本格的に進行する1800年以前、Lonelinessという言葉は印刷物にほとんど登場していなかったことが分かります。つまり、第2次エンクロージャーによって土地を失った自営農民が、故郷(=コミュニテイ)を離れ都会で工業労働者になったときに、はじめて孤独=不幸が顕在化したのでしょう。
たまたま、菅野久美子(ノンフィクション作家)の"孤独死大国 - 予備軍1000万人時代のリアル"(2017年、双葉社)を読んでいる最中だったこともあり、それと同じことが日本ないしモンスーンアジアにおいて繰り返されているのだという確信を抱いた次第です。
『コミュニティ・ロストと孤独』は、私自身が直面しているテーマでもあります。ニュートン力学以前の技術に依存していた寒村で生まれてからの70年を振り返りながら、人間にとって豊かさとは何か、幸福とは何かという問いに向き合いたいと考えています。
自負と無念
兄の遺著が届きました。目次だけでも11頁、全体では650頁を超える浩瀚な一冊ですので、内容を要約してお伝えすることは手に余ります。そこで、兄の思いが滲み出た2つのパラグラフをご紹介したいと思います。

一つは最終章である"第五章 訳読の方法と課題"の最終節"5.訳読の復権に向けて"の最後のパラグラフです。
『・・・概括的に言えば、日本人はオランダ語の訓読法に倣って英文訓読法を編み出し、それによって英語を学び、訳してきたが、一部にはたえずこれ以外の訳し方(新しいプログラム)はないかと、問を発し続けた人たちがいた。そうした探求の結果が直読直解法や順送りの訳のような形で間歇的に現れたのである。われわれはこの順送り訳という豊かな遺産を十分に活用する形で、どのような訳読が望ましいかを考えてきたが、少なくとも新しい訳読法(翻訳法)の基本的構想は提示できたと考える。今われわれは訳読の復権の緒についたのである』
兄は高言や激情とは無縁の人でしたので、このパラグラフには胸を衝かれました。書き終えたときに兄の脳裡に去来したであろう、
もう一つは死去する少し前に、医師に懇願して自宅に戻り書き上げた"あとがき"です。
『・・・「訳し上げ」と「順送りの訳」を対比的に捉えるようになったのは1982年・・・のことである。・・・一連の機能文法の理論を翻訳学に応用してみようという考えが生まれてきたのである。しかし、それも2000年代を待たなければならなかった。これに関しては常に私の後ろにあった吉本隆明の美しい本"言語にとって美とは何か"が作用していたように思われる。「おまえさんなんか、まだまだだよ」とか「おまえさん、いくら何でももうそろそろじゃないのか?」と、絶えず背中を引かれ押されているような気がしたのだ。
本書のような特殊な内容と動機をもつ本が出版されるためには、本書の意義を理解できる編集者の存在が不可欠である。法政大学出版局の郷間雅俊氏の眼がなければ本書が日の目を見ることはなかったかもしれない。
最後に、本書の後についてであるが、常識的には本書が遺著となるのは当然であろう。しかし私はあえて、<最後から二冊目の本>(the penultimate book)であるとしておきたい』
"あとがき"を読み終えて、病室にあった遺品の中にどうして40年以上も前に印刷された文庫版の"共同幻想論"と"言語にとって美とは何か"があったのか、なぜハルノ宵子の"隆明だもの"の差入れを頼まれたのかが、ようやく釈然とした次第です。
最後の一文については、今なお冷静に読むことができません。
来週末には納骨のため帰省しますが、両親も眠る墓前にこの本を供え、兄が愛した阿武隈の森を歩いてきたいと思っています。
斥候(ものみ)よ夜はなお長きや
教養学部の構内にあった学生寮で懶惰な留年生活を送っていた1974年のある日、ふたりの同級生と暮らしていた30畳ほどの部屋に、見知らぬ来客がありました。きけば30年ほど昔の住人とのことで、壁という壁を埋めつくす落書きを眺めまわしたあと、「さすがに残っていないか、ももの落書き」とポツリ。14才から18才までの5年間を怒れる少年たちの一員として過ごした者にとって、いいだももはアイドルも同然の存在でしたので、この呟きを耳にしたあとのわれわれが、初老の闖入者を丁重にもてなしたことは言うまでもありません。
日本経済新聞は8月5日、”市場は偽りの夜明けか - ボルカー型ショックに備えを”という記事を配信し、6月中旬以降、日米の株式市場に楽観的な空気が戻ってきていることに対し、警告を発しました。
この記事を読んで、リーマンショックのあった翌年の2009年3月、バーナンキFRB議長が「green shoots」(景気回復の芽)という言葉を使ったのを受けて、日銀総裁を務めていた白川方明が翌月、Japan Societyにおける講演で、「偽りの夜明け」(false dawn)というキーワードを使って、本格的な回復には長い時間がかかると警告していたことを思い出しました(”中央銀行 - セントラルバンカーの経験した39年”(2018年10月25日、東洋経済新報社)のp283~p234を参照)。
同時に、いいだももの処女作のタイトル”斥候よ夜はなお長きや”(1966年1月1日、芳賀書店)が脳裡をよぎったのでした。というのも、米国の株価や国債(金利は下落)、日本の株価、円ドルレートは、6月中旬を底に反転していますが、これは終わりの始まりにすぎないのではないか。つまり夜明けどころか、我々はまだ黄昏を迎えたばかりで、株式、債権、不動産、暗号資産、コモディティ等のリスク資産の夜はこれからが本番なのではないか、という思いが拭いきれないでいたからです。
同じ8月5日、隻眼孤高の投資家マイケル・バーリも「コロナ禍でなじみの愚かさは、まだ死んでいない」とツイッターに投稿しました。
また、ラリー・サマーズやジェフリー・ガンドラッグをはじめとして、超緩和的な金融・財政政策への反動が深刻な景気後退をもたらすと警告する論者は枚挙に暇がありませんが、仮に彼らの予想が的中することになれば、超緩和的な金融・財政政策の先頭を突っ走ってきた日本社会は、どの国・地域よりも過酷な代償の支払いを求められることになるでしょう。
しかし、それでも日本社会が滅亡するわけではありませんし、希望がなくなるわけでもありません。次回からの投稿では、1980年代以降、日本社会に何が起こったのか、そしてこれから何が起ころうとしているかについての与太話を披露したいと考えています。
最後に、日本銀行に勤務したこともあるという寮の先住者が遺した一文を紹介したいと思います。
『21世紀は希望の世紀か? しかり、 希望の世紀だ。21世紀は希望の世紀でなければならない。私たちがそうしなければならない』
”<主体>の世界遍歴 - 八千年の人類文明はどこへ行くか“ (いいだもも、2005年、藤原書店)
