善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

死出の山路

 前回の投稿で宣言した「1980年代以降、日本社会に何が起こったのか、そしてこれから何が起ころうとしているかについての与太話」を披露すべく、これまで書き溜めてきたノートを読み返しはじめた8月30日の夜、発熱していることに気づきました。体温を計ると37.6℃。念のため抗原検査キットでチェックしたところ陰性だったことから、さほど深刻に考えず風邪薬を服んで就寝したのですが、翌朝には40℃近くまで上昇する始末。慌てて2回目の検査をするとまたもや陰性でしたが、翌日になっても熱が引かないので、3回目の検査では鼻腔の奥深くまで綿棒を挿入して検体を採取したところ、ビンゴ!! 遠隔診療による陽性判定を経て、10日間の自宅療養を余儀なくされました。

 経過は良好で、血中酸素飽和度が95%をきり緊張させられる局面が一度だけあったものの、9月10日には無事放免となった次第です。しかし、重篤なものではありませんが咳喘息の後遺症があり、つい最近まで咳に悩まされました。

 そんな具合ですから、この秋は自宅でのんびり過ごすべきだったのでしょうが、このまま家にとじこもっていたら脚が萎えて山歩きができなくなってしまうのではないかという焦りに駆られて、放免されてわずか1週間後の9月17日、よせばいいのに北八ヶ岳へと出かけたのでした。

 病み上がりであることを考慮して、白駒池駐車場-麦草峠-茶臼山-縞枯山-雨池峠-雨池-麦草峠-白駒池駐車場という累積標高差の少ないルートを選んだにもかかわらず、早くも茶臼山の中腹あたりで足がまったくあがらなくなってしまい、頂上にたどり着く頃には意識も朦朧、天望台と呼ばれる岩場では昏倒する始末で、悲鳴をあげる連れ合いには「足が滑った」といって誤魔化しましたが、右腕の内出血だけで済んだのが不思議なほどの見事な倒れっぷりでした。深く息をすると咳の発作に見舞われるのを恐れて、無意識のうちに呼吸が浅くなってしまったのが響いたのかもしれません。

 結局、茶臼山縞枯山の鞍部から下山し、茶臼山の山裾をまくようにして麦草峠に戻りましたが、その途中で脳裏に去来したのが、高校生のときに読んだ「夏は郭公(ほととぎす)を聞く。語らふごとに、死出の山路(やまじ)を契る」という”方丈記”の一節です。

 懲りもせず、その後も毎週のようにハイキングに出かけているのですが、先週、霧ヶ峰の物見岩から蝶々深山に向かう道すがら、ふたたび「死出の山路」という言葉が脳裏をよぎりました。枯野を往くハイカーたちの影が、冥土に向かう死者の群れのように見えたからです。ただ、もう十分に齢を重ねたからでしょうか、自分自身がその中の一人であることを厭う感情はまったく湧かず、この惑星から生まれまた惑星に還ってゆくのだという得心にも似たような思いを受け容れている自分がいました。

 アップした写真は10月の初め、埼玉県西部のハイキングコースで撮ったものです。特に2枚目に写っている陽だまりは、1988年の春、5年ぶりに出現した父親に戸惑いを隠せないでいる子どもたちと昼食をとった思い出の場所です。