善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

10年遅れの厄年 - When sorrows come, they come not single spies, but in battalions

 冬晴れに恵まれた1月8日、始発電車に揺られて2024年最初のハイキングに出かけました。京王線高尾山口駅を起点に高尾山、陣馬山和田峠、連行峰、三国山、浅間峠を越えて檜原村上川乗集落をめざす計画で、総距離25.5km、累積標高差(上り)2,337m、標準コースタイム11時間10分というロングコースですが、昨年は10月下旬に母の遭難騒ぎ19周年を記念して、芦ヶ久保駅から西武秩父線の北側に連なる稜線をたどって武蔵横手駅まで27kmほど縦走した他、暑い盛りの奥多摩で総距離25km前後のコースを歩いた経験も2回ほどあったので、さほどの不安はありませんでした。

 ところが意気揚々と歩き始めたまでは良かったものの、身体が重くピッチをあげることができません。加えて高尾山から陣馬山の間は人気コースということもあり、なかなか自分のペースでは歩かせてもらえず、いたずらに時間が過ぎていくばかりで、陣馬山に差し掛かったときには既に予定を1時間30分オーバー、6時間が経過していました。

51年ぶりの陣馬山

 日没時刻は16時44分。4時間あまりしか残っていません。そこで急きょ連行峰から万六尾根をくだり、檜原村柏木野集落をめざすことにしました。エスケープルートとはいえ総距離23.8km、累積標高差(上り)1,800m余り。焦りがなかったといえば嘘になります。

当日のルート

 陣馬山を越えると、それまでの喧騒から一転、人影は疎らになり、和田峠を過ぎると誰ひとり見かけなくなりました。道も険しくなり、獣の踏み跡ほどの小径に。かつては武蔵(檜原村)と甲斐(上野原市)を結ぶ由緒ある古道だったというのが、にわかには信じられないほどの寂びれようです。ペースは依然として上がりませんでした。勾配がきつくなってきたのに加えて、西の空から降りそそぐ陽射しを浴びて燦めく裸木や落ち葉に魅せられ、足を止めてばかりいたからです。

負傷する少し前に撮った1枚

大蔵里山付近の小径

 大蔵里山(おおぞうりやま)という小ピークで水分補給のため小休止をとり、日没に備えてヘッドランプを首に掛けました。YAMAPアプリによれば、柏木野集落への到着は日没後になる怖れがありました。焦りに駆られると碌なことはありません。いつもなら敢えてペースを落とし慎重にと自戒しながら進む局面でしたが、眼前に拡がる冬枯れ道の美しさの虜になり、いつしか遠い記憶を反芻しながら漫然と足を運んでいたようです。緩い下り坂で木の根に足をとられ、前のめりに転倒しました。とっさに岩場に両手をつき頭部は守ったと安堵した刹那でした、バックパックが後頭部に追突、その衝撃で岩場に頭突きをかます結果となりました。小休止した際にはずしたチェストストラップやウエストベルトをそのままにしていたこと、またトレーニングのため水をいつもより3Lほど余分に背負っていたことが仇となりました。

 しばらくはショックと激痛のため身動きが取れませんでしたが、5分ほどで痛みに慣れてきたので、除菌シートとテーピング用絆創膏で応急処置をほどこし、山行を再開しました。連行峰のあたりで再び痛みが募ってきたので、バッファリンを定量の2倍服用し万六尾根を急ぎました。万六の頭という小ピークを越えたあたりで日没となり、ヘッドランプの灯りを頼りにバス停のある柏木野の集落までたどり着いたという次第です。

 バッファリンのおかげもあり自宅に着く頃には痛みもほとんど収まっていたので、ハイキュアパッドという絆創膏を貼って寝たところ、翌9日朝には痛みも消えており腫れもありません。そこで仕事にでかけ、予定していた打ち合わせや面談をこなしていたのですが、午後になって患部からリンバ液が流れ出ていることに気づきました。慌てて行きつけの外科医院に駆け込んだところ、皮膚や皮下組織の損傷がひどく、縫合することになりました。

 ここまでならよくある話ですが、ここからが本題です。

 縫合処置を受けた翌10日の午後は予定が入っていなかったので、早めに帰宅したところ、夕刻から猛烈な吐き気に見舞われ、翌朝まで一睡もできずに嘔吐しつづけることになりました。少し遅れて下痢や発熱も始まり、典型的なノロウイルス感染症でした。

 13 日になってようやく柔らかめの食事が摂れるようになり、家人と「10年遅れの厄年かもしれないな」などと話し合っていたのですが、更なる厄災が待ち構えていたのでした。

 14日の朝、窓際の敷居に汚れがこびり付いているのに気づき、ウエットテッシュで拭いたところ、右手薬指の爪と皮膚の間に尖った木片が刺さり、失神しそうなほどの激痛。思わず怪猫のような叫び声をあげたのでした。日曜日ということもあり行きつけの医院は休診。ようやくネットで西荻窪にある医院を見つけ、今年2回目の局部麻酔を射たれたという次第です。

 シェイクスピアの昔から『不幸は、ひとりではやってこない。群れをなしてやってくる』といいます。今年はまだ半月が過ぎたばかり。残り11ヶ月半は、石橋を叩き壊してしまうぐらい慎重に暮らしたいと考えています。

 また、家人からは「山登りなんかに現を抜かしている報い」と罵られているので、机に向かう時間を増やし、前々から約束していた『1980年代以降、日本社会に何が起こったのか、そしてこれから何が起ころうとしているか』について、①日本の生産システム(自国資本による国内生産、ピラミッド型の生産構造、産業予備軍を持った資本主義)、②それを支えてきた国家レベルの戦略(通貨の過小評価、国民所得に占める賃金の割合の低さ、金利を自然利子率や均衡金利を下回る水準に抑える金融抑圧)、③それに対応した社会システム(家族、コミュニティ、教育)の変容プロセスとして描きたいと考えています。