善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

日本学士院賞を撃つ

 以下は、戦後に経済学分野の日本学士院賞を受賞した人物、受賞時の年齢、受賞対象となった研究タイトルをリスト化したものです(研究タイトルが長いものは一部省略しています)。受賞時の平均年齢は62.13歳であり、対象となった研究はほとんどが経済史や経済学史、経済思想に関するものだったことが分かります。つまり、対象となった研究のほとんどは、それなりに功なり名を遂げた研究者の、同時代の制度設計などの政策決定には影響しない -今風に言い換えると「政策的インプリケーションのない」ものだったといえます。

1954年 根岸佶  (80歳) - 「中国のギルド」
1955年 羽原又吉 (73歳) - 「日本漁業経済史」
1962年 児玉洋一 (57歳) - 「近世塩田の成立」
1963年 天野元之助(62歳) - 「中国農業史研究」
1964年 竹中靖一 (58歳) - 「石門心学の経済思想」
     杉山忠平   (43歳)    - 「イギリス信用思想史研究」
1966年 江頭恒治 (66歳) - 「近江商人中井家の研究」
1967年 松川七郎   (61歳)    - 「ウィリアム・ペティ」
1970年 大山敷太郎(68歳) - 「幕末財政金融史論」
1971年 宮本又次 (64歳) - 「小野組の研究」(恩賜賞も受賞)
1972年 小林昇  (56歳) - 「フリードリッヒ・リスト論考等」
     村松祐次 (61歳) - 「近代江南の祖棧—中国地主制度の研究」
1981年 木下彰  (78歳) - 「名子遺制の構造とその崩壊」
1982年 柚木学  (53歳) - 「近世海運史の研究」
     江口英一  (64歳)  - 「現代の『低所得層』―『貧困』研究の方法」
1988年 篠原三代平(69歳) - 「日本経済の成長と循環等」
1990年 青木昌彦 (52歳) - 「現代の企業等」
1991年 塩野谷祐一(59歳) - 「価値理念の構造―効用対権利」
1993年 根岸隆  (60歳) - 「History of Economic Theory」
1995年 速水融  (66歳) - 「近世濃尾地方の人口・経済・社会」
1997年 侘美光彦   (62歳)    - 「世界大恐慌―1929年恐慌の過程と原因」
1999年 竹本洋  (55歳) – 「経済学体系の創成―J.ステュアート研究」
2001年 林文夫  (49歳) – 「Understanding Saving」
     坂本達哉 (46歳) - 「ヒュームの文明社会」
2002年 藤本隆宏 (47歳) - 「The Evolution of a Manufacturing System
               at Toyota」(恩賜賞も受賞)
2004年 中村隆英  (79歳)     - 「A History of Shōwa Japan, 1926-1989」
2005年 清川雪彦 (63歳) - 「アジアにおける近代的工業労働力の形成」
2006年 鈴村興太郎(62歳) - 「厚生経済学における厚生主義的帰結主義の克服」
2007年 秀村選三 (85歳) - 『幕末期薩摩藩の農業と社会』(恩賜賞も受賞)
2008年 大竹文雄 (47歳) - 『日本の不平等』
2009年 安藤隆穂 (60歳) - 『フランス自由主義の成立』
2010年 斎藤修  (64歳) - 「比較経済発展論―歴史的アプローチ」
2014年 寺西重郎 (72歳) - 「戦前期日本の金融システム」
2016年 宮本憲一 (86歳) - 「戦後日本公害史論」
2019年 山崎志郎   (62歳)    - 「太平洋戦争期の物資動員計画」
2020年 神林龍  (48歳) - 「正規の世界・非正規の世界」

 しかし、日本経済がその頂点を極めていた1990年、変化が生じます。
 青木昌彦(スタンフォード大など)の研究「“The Co-operative Game Theory of the Firm”(邦語版『現代の企業』)および“Information, Incentives and Bargaining in the Japanese Economy”」が受賞したのです。
 受賞対象となった研究は、知的熟練論に基づき日本の雇用システムの優位性を唱えた小池和男(京都大など)や、日本的な下請・系列取引を積極的に評価するサプライヤ・システム論を展開した浅沼萬里(京都大)の研究と連携しつつ、それまで「前近代的で遅れたもの」と考えられていた日本型経営や日本型経済システムを、ゲーム理論を使って世界のモデルになりうるものとして積極的に評価したJ企業論であり、政策的インプリケーションの強いものでした。


 脇道に逸れますが、小池、浅沼、青木が展開した1980年代の通説に対しては、アメリカモデルを信奉する市場原理主義が支配的となった1990年代以降も日本の労働研究や中小企業研究などに悪影響を与え続けているという観点から、”日本企業 理論と現実(上井喜彦・野村正實編著、ミネルヴァ書房、2001年10月)において、上井喜彦、野村正實、遠藤公嗣らが批判を展開しています。
 また、小池和男については、野村正實(東北大)が”知的熟練論批判- 小池和男における理論と実証”(ミネルヴァ書房、2001年10月)や、”日本の労働研究”(ミネルヴァ書房、2003年5月)などにおいて徹底的な批判を展開していますが、遠藤公嗣(明治大)が”日本の人事査定”(ミネルヴァ書房、1999年5月)において、小池が知的熟練論を展開するにあたって依拠した最重要資料ともいえる「仕事表」を創作(ありていに言えば捏造)した疑いがあると指摘したのを受けて、捏造を立証していくプロセスは、すこぶるスリリングです。PCR検査などのため入院していた最中に熟読しましたが、興奮のあまり眠れなくなってしまったほどでした。
 名指しで最重要資料の「創作」を指摘されたにもかかわらず、小池はいっさい反論しませんでした。おそらくは、できなかったのででしょう。この経緯については、遠藤公嗣が『知的熟練論批判- 小池和男における理論と実証』の書評においてわかり易くまとめていますので、ぜひご一読ください。

http://www.isc.meiji.ac.jp/~endokosh/Endo2002nomurabookreview.pdf

 なお、研究者による資料の捏造は犯罪にも等しい行為ですが、小池は研究機関や学会から追放されなかったばかりか、こともあろうに2014年、文化功労者に選ばれたました。


 本題に戻ります。
 青木に続く政策的インプリケーションの強い受賞者は、「構造改革なくして成長なし」と提唱する林文夫(東京大等)です。奇しくも「聖域なき構造改革」を訴える第1次小泉内閣が発足した2001年のことでした。
 翌年には”能力構築競争-日本の自動車産業はなぜ強いのか”(中央公論社、2003年6月)や”日本のもの造り哲学”(日本経済新聞社、2004年6月)などの著書で知られる藤本隆宏(東京大学)が受賞します。その背後には、アメリカモデルを信奉する市場原理主義に抗して「ものづくり大国・日本」という幻想にしがみつこうとする財界主流の意向が透けて見えます。ちなみに前年には、財界の肝いりで設立された”ものつくり大学”が開校しています。
 続く受賞者は、「御用学者」という不名誉なレッテルがつきまとう大竹文雄(大阪大)でした。格差論議が高まりを見せるなか、サントリー学芸賞エコノミスト賞も受賞した”日本の不平等”(日本経済新聞社、2005年5月)が対象となりました。タイトルとは裏腹に、日本が格差社会であることを否定する研究です。
 そしてトリを飾るのはこの4月に受賞した神林龍(一橋大)。対象となったのは、以前にも取り上げたことのある”正規の世界・非正規の世界 - 現代日本労働経済学の基本問題”(慶応義塾大学出版界、2017年11月)です。
 これら5人の受賞者には、受賞時の年齢が若い(48.6歳)こと、そして政権や財界の主張と親和的であるという共通の特徴があります。ひねくれ者の僕としては、政権や財界にとって都合のいい働き盛りの研究者を、日本学士院賞という箔をつけて行政機関が設置する研究会や委員会、審議会などに送りこみ、制度設計などの政策立案プロセスに政権や財界の意向に沿った影響力を行使させようとしているのではないかと、ついつい穿った見方をしてしまうのです。青木のJ企業論が現実によって否定されると林を、林の理論が現実によって否定されると大竹を、大竹の理論が現実によって否定されると神林をと、定期的に新陳代謝を繰り返しながら。

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 アップした写真は大竹文雄の”日本の不平等”を撮ったものです。図書館で借りて済まそうと思ったのですが、ツッコミどころ満載なので、じっくり読んでみたくなり購入しました。大竹が終わったら、神林龍の”正規の世界・非正規の世界”にも取り組む予定です。
 特に神林については、タイトルを尾高煌之助の”職人の世界・工場の世界”(NTT出版、2000年7月)から拝借したのではないか、また「非正規労働者の増加」の対偶が「インフォーマル・セクター(自営業・家族従業者)の減少」であるという点についても、野村正實(東北大)の”雇用不安”(岩波新書、1998年7月)の第3章”「全部雇用」成立の論理”が先行研究としてあり、それをヒントにしたのではないかという疑念が拭えずにいますので(特に117ページの図3-18)、統計学の復習も兼ねて精読したいと思っています。