善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

二人だけの橋

 有沢広巳が二重構造問題を提起した翌年の1958年、水野久美久保明が共演する映画”二人だけの橋”が公開されました。とりたてて話題となった作品ではないようですが、2009年6月、たまたまケーブルテレビで放映されたのを視聴し、そのころ毎週のように足を運んでいた墨田区東向島と旧山谷地区(荒川区南千住や台東区橋場など)とをむすぶ白鬚橋が舞台となっていたこともあって、記憶に残っています。
 あらすじを”Movie Walker”から引用させてもらいます(読点などについて一部改変)。

『東京。隅田川の白鬚橋で、友二(久保明)が泣きじやくる甥のイサムを背って行きつ戻りつしていると、通りかかった少女(水野久美)が、玩具のラッパをイサムの手に握らせて、去って行った。
 友二は兄夫婦の家に世話になり、方々で職を探していた。職はなかなかなく、蔵前の玩具店の店員の募集に応じた時、先日のラッパをくれた少女に会った。断られて帰る友二と連れ立って、少女は自分が石鹸工場で働いていること、その日は家の内職の材料を取りにきたことなどを話した。彼女の家まで送って行くと、友二はその少女チエの母親や弟から大歓迎された。
 それから二人は毎日、白鬚橋のうえで逢った。友二が中河鉄工所へ日給200円の見習工として就職することができ、チエはだれよりも喜んでくれた。鉄工所で、友二は中年男の斎藤 - 無口だが根は親切 - の下についた。友二は懸命に仕事に励んだ。同僚の河村は仕事に不熱心で、いつも上役からどなられ、少年工の高橋も別の職業につきたいと思っている。
 クリスマスに、やっと仕事を終えた友二をチエが雪の中で待っていた。浅草でラーメンをたべ、互いに乏しい中から買ったマフラーとネッカチーフをプレゼントし合った。その夜、白鬚橋の上で、チエは橋の支柱の一部をポストに毎日文通しあうことも提案した。工場のすみでチエからの手紙をむさぼり読む友二をひやかしていた河村が、夜ふかしがたたって指を機械にはさまれた。見習工には工場の態度は冷たかった。
 友二は河村から、自分の代りに時計工場の試験を受けてみないかと云われた。彼は母親が病気と嘘をいって工場を休み、試験を受けた。採用が決まったが、身体検査で胸に異状が発見された。チエの励しも、呆然とした友二には無力に見えた。僕はもう工場には帰る気がしない。チエはそのまま友二にかじりついた。あたし、友ちゃんの病気を貰うの!貧しい恋人たちの抱き合う原っぱを、冷い風が吹き抜けて行った。
 友二は辞職するため鉄工所へ行き、自分が嘘をついたことを話し、工場の人たちの冷淡さを非難した。斎藤からなぐられ、しかしその目の涙を見た友二は、身体を早くなおしたら再び工場で働こうと思う。白鬚橋に、貧しいが元気で明るい恋人たちの姿が、再び見られるようになった』
 ここで描かれているのは二重構造そのものです。友二が入社試験を受けた時計会社は大企業であり(かつて墨田区内には錦糸町精工舎の工場、亀戸には第二精工舎の工場がありました)、中河鉄工所は典型的な零細企業です。1958年当時、従業員数30人未満の事業所の平均給与は177,000円/年で、500人以上の企業の平均給与315,800円/年を大きく下回っていました。ちなみに見習い工員である友二の給与は57,600円/年(200円/日×24日/月×12ヶ月)に過ぎません。時計会社に職を得ることがどれほど魅力的だったか、格差がいかに大きいものだったかったかがわかります。
 もっとも、長年にわたって精密機械工業の労使関係を研究してきた中村眞人(東京女子大)の”仕事の再構築と労使関係 − 世紀転換点の日本と精密機械工業”(2009年、御茶の水書房)によれば、1950年代なかばまでの腕時計生産は、職人的な性格を強く残した熟練労働者が一個ずつ組み立てるものでしたが、それ以降は組立工程をいくつもの単純作業に細分化した上で、ベルトコンベアで結合するフォード・システムが導入されるようになったので、結核が発覚しなかったとしても、友二が社内訓練を受けて熟練工になり、終身雇用と年功賃金にありつけたかどうかは分かりません。

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 写真は2009年1月、東向島にある白鬚神社にほど近い一画で撮ったものです。2019年4月のStreetViewでチェックしたところ、この魚屋さん"魚大"は健在でした。