善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

Lost Century (1)ターニングポイント

 日本は長い間、人口過剰社会でした。環境問題研究家の石浩之(朝日新聞東京大学)は、National Geograpic 2011年4月号の記事”急ブレーキがかかった人口過剰社会”で、次のように述べています。
『そもそも明治以降、日本は、過剰人口をどうするかということが課題の国だった。口減らしのため、生まれたばかりの子供を闇に葬ったり、棄老と言って、働けなくなった老人が、自ら山に死にに行くという伝説もある。つまり、日本は長い間、深刻な人口過剰社会だったのです』
 南北アメリカ満州などへの移民、すなわち人間の輸出が国策として推し進められたにもかかわらず、過剰人口を解消することはできませんでした。
 尾高煌之助(一橋大学・法政大学)も、みずからの研究生活を総括する論文”近代経済成長は労働にとって何だったのか?”(大原社会問題研究所雑誌No.681、2015年7月)において次のように書いています。
第二次世界大戦前後を通じて,日本,台湾,韓国,フィリピン,タイの諸国の農業の時系列データ(各年別)を使ってそれぞれの国の生産函数を計測し,限界労働生産性を求めたところ,賃金と限界(付加価値)労働生産性とはおおむね等しいことが確認されたが,戦前の日本と植民地期朝鮮とでは例外的に,賃金と等しいのは(限界ではなく)平均(付加価値)労働であるのがわかった。この事実に鑑み,著者は,戦間期のこれら二国の自営農家では合理的水準以上の労働サービスが投入されていること(その意味で「過剰雇用」であること),いいかえれば潜在失業のプールが農村内にあったことを示唆する』
 つまり日本社会では1880年代に産業革命がスタートしてから60年近く経過してもなお、後述する「ルイスの転換点」には到達せず、農山村部に過剰労働力が堆積していたというのです。
 ところで、台湾やフィリピン、タイにはなぜ潜在失業のプールがなかったのか気になったので、出典である”近現代アジア比較数量経済分析”(法政大学出版局、2004年12月)の第9章「全部雇用のメカニズムを探る」を当たったところ、過剰人口のプールがなかったわけではなく、単に後述する「全部雇用」が観察されなかっただけに過ぎないことが判明しました。しかも、フィリピンとタイについては工業化が進展した戦後についての分析結果だったというおまけつきです。なぜこれらの国の農村に過剰人口がなかったのかが気になるあまり、国会図書館が臨時閉館中ということもあって本体価格4,200円の本をネット通販で購入した僕としては、ついつい「もう少し精確に書いてくれよ、学者なんだからよお」と恨み言の一つも漏らしたい気分です。
 なお、「全部雇用」という言葉は、ほぼすべての人々が働いてはいるものの「完全雇用」からは区別される状態を指す概念として、東畑精一(東京大学)が提唱したもので、1957年の経済白書の次の一文が、その内容を簡潔に表現しています。
『我が国雇用構造においては一方に近代的大企業、他方に前近代的な労資関係に立つ小企業及び家族経営による零細企業と農業が両極に対立し、中間の比重が著しく少ない。大企業を頂点とする近代的な部門では世界のどんな先進国にも劣らないような先進的設備が立ち並んでいる。そこではある特定の種類及び品質の商品を生産するために、また、世界市場における競争を耐えぬくために、進んだ技術が必要とされるのであって、資本に対する労働の必要量は技術の要求に基づいて決定され、賃金の高さは、大資本と強力な労働組合との間の交渉によって左右される。近代部門からはみだした労働力は何らかの形で資本の乏しい農業、小企業に吸収されなければならない。必要労働が資本と技術によって決定される近代部門と異なって、この部門では所得低下を通じて資本と労働の組み合わせが変化する。生きていくためにはどんなに所得が低くても一応就業の形を取るから、この部門では失業の顕在化が少ない。完全雇用ではないが、いわゆる全部雇用である。賃金も労働力を再生産するだけよこさなければ働きに出ないということはなく、いくらかでも家計の足しになれば稼ぎに行く』
 戦後、500万人を超える復員兵士や外地からの引揚者たちを受け容れ、かつベビーブーマーたちが加わった日本が、「ルイスの転換点」(工業化の過程で農業部門の余剰労働力が底をつくこと)に到達したのは、敗戦から20年以上たった1960年代後半と言われています。以下の一文はWikipediaからの引用です。
『工業化前の社会においては農業部門が余剰労働力を抱えている。工業化が始まると、低付加価値産業の農業部門から都市部の高付加価値産業の工業部門やサービス部門へ余剰労働力の移転が起こり、高成長が達成される。工業化のプロセスが順調に進展した場合、農業部門の余剰労働力は底をつき、工業部門により農業部門から雇用が奪われる状態となる。この底を突いた時点がルイスの転換点である。日本においては1960年代後半頃にこの転換点に達したと言われる』
 1960年代から1970年代後半にかけての人手不足を背景に、日本経済を特徴づけていた二重構造はいったん解消に向かいました。中企業(30〜999人)の賃金が上昇し、大企業(1,000人以上)との格差が縮小したのです。しかし、高度成長は、不安定な雇用や低賃金、低い熟練度を特徴とする縁辺労働の温床である小・零細企業(1〜29人)を置き去りにしていきました。
 日本における格差論議に終止符を打ったと言われる橋本健二(早稲田大学)の名著”「格差」の戦後史”(2009年10月、河出書房新社)は、SSM調査データに基づく分析を踏まえ、次のように述べています。
『すでに60年代、大企業労働者は離陸を果たして貧困から脱し、70年代には中企業労働者がこれに続いたが、小零細企業労働者は取り残されたのである』
 そして転機がやってきます。ブレトンウッズ体制の崩壊に伴う変動相場制への移行により、高度成長を牽引してきた外需依存度の高い製造業は大きな打撃を受け、次いで第1次オイルショックがやってきました。更に、ベビーブーマーたちが就職し尽くしてしまい、安い労働力の供給が絶たれます。3大都市圏の転入者数(日本人移動者)は1961年をピークに急速に減少し、1976年に転出超過に転じたことが見て取れます。
 この転換期の真っ只中に書かれた1976年度経済白書には、2つの重要な予言が記されています。
 第1の予言は、高度成長期から安定成長期への移行に伴い、日本型雇用システムの中核をなす終身雇用と年功賃金制を維持することが困難になっていくというものです。
『終身雇用制と、これと一体関係にある年功賃金制は、企業の拡大が速やかに行なわれている時期には、人件費コストを抑制する方向に働いたが、企業の成長スピードがスローダウンし、労働力構成が高令化すると、人件費を押し上げる方向に機能する。
年功賃金制の下で人件費コストの増加を抑制するには、賃金の安い若年層を大量に雇い入れることによって平均年令を引下げることが必要だが、これは一般的には高度成長の下でのみ可能であった。事実、第4-26表(省略)にみるように昭和45年ごろまでは、おおむね労働力の年令構成が若返ることで賃金上昇率が抑制されていたが、45年以降は労働力の年令構成が高令化することで、賃金上昇率が余分に高くなってしまっている。今後成長率の屈折等により企業内の労働力の高令化が進むため、年功賃金制度の下では賃金コストの抑制は容易ではないこととなろう』
 第2の予言は、再び企業の規模間格差が拡大するというものでした。
『人手不足による初任給アップと中高年令層賃金の伸び悩みから年令別賃金格差が縮小したことに加え、高圧経済(注 : 供給能力よりも需要が上回り、投資などが活発化してさらに需要圧力が高まる傾向にある経済)下では効率の低い限界企業さえ世間並み賃金の支払いが可能であったから、賃金の平準化傾向がみられた。しかし、これからは生産性の違い等を反映して、企業の支払い能力は次第に差がひらき再び企業間の賃金格差が拡大する可能性がでてきている』
 そしてこれらの予言は的中します。

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 写真は2009年12月に葛飾区亀有で撮ったものです。日没後でしたがISOを上げたくなかったので、濡れた路面に片膝をついてシャッターを切りました。かつては下駄なども製造していたというので、会津に養家があると伝えたところ、「会津の桐は素晴らしかった」と褒めてくれたこともあって、後日、プリントをお届けしました。