善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

Industrious Poverty

 2011年12月17日の朝日新聞が報じた国立科学博物館が収集した人骨にまつわる記事のなかに、
『江戸時代の成人の平均身長は男性が150センチ台半ばで、女性はそれよりも10センチほど低い。日本のすべての時代の中で最も小柄だった。栄養状態が悪いうえに狭い長屋などに密集して生活したストレスの影響と考えられるという。「生活は厳しかった。スラムといった方がいい江戸の影の部分が骨には記録されています」と篠田さん(国立科学博物館人類史研究グループ長)』
 という一文があり、それまで江戸がスラムともいえる都市だったという表現に出会ったことがなかったこともあって衝撃を受けたのですが、その直後、たまたま手にした速水融の”歴史人口学で見た日本”(2001年、文藝春秋)を読んで都市アリ地獄説というものを知り、ふたたび驚愕させられることになりました。速水は書いています。
『・・・都市というものはアリ地獄のようなもので、引きつけておいては高い死亡率で人を(やって来た人だけではないが)殺してしまう。だから地域全体としては人口は増えなくなる。江戸っ子は三代もたないという俗説があるが、これは、江戸は住んでいる人にとっては健康なところではなく、農村から健康な血を入れないと人口の維持ができないということを意味している。私が「都市アリ地獄説」を提起したころ、ヨーロッパでも同じ現象に目をつけて、「都市墓地説」ということがいわれるようになった。つまり、各種インフラストラクチャー、公衆衛生、医学、病院などに近代科学技術が適用され、死亡率が低くなる以前は、都市のほうが農村より死亡率が高かったし、出生率は低かったので、人口を都市以外から吸い込む必要があった』
 これら二つの文章にめぐりあったことで、池波正太郎や江戸時代再評価ブームを牽引した田中優子(法政大学)、あるいは江戸東京博物館などが描く江戸とはまったく別物の江戸をイメージするようになったのですが、同時に、人間をむさぼり喰らうアリ地獄に子弟を送りださざるをえなかった農山村の暮らしは、より痛ましいものだったのではないかとも考えるようになりました。これはぼく自身が東北南部の僻村で生まれ育ったことや、会津の山間部を担当するケースワーカーをしていたことが影響しているのかもしれません。
 ちょっと脇道に逸れますが、速水は「勤勉革命(Industrious Revolution)」という論考でも知られています。以下はWikipediaからの抜粋です。
勤勉革命とは、江戸時代農村部に生じた生産革命である。産業革命(工業化)が資本(機械)を利用して労働生産性を向上させる資本集約・労働節約型の生産革命であったのとは対照的に、家畜(資本)が行っていた労働を人間が肩代わりする資本節約・労働集約型の生産革命であり、これを通じて日本人の「勤勉性」が培われたとされる。江戸時代濃尾地方農村部に人口の増加に伴う家畜の減少を観察した歴史人口学者の速水融により1976年に提唱され、産業革命 (industrial revolution) に因んで勤勉革命 (industrious revolution) と名付けられた。・・・西ヨーロッパにおいて勤勉を美徳とする倫理観はプロテスタンティズムの影響を受けたものであるが、日本人の「国民性」とも言われる勤勉性は勤勉革命、つまり経済原理に則った江戸時代農民の行動によって培われたものである。そして勤勉革命の成果が減衰しないうちに工業化が行われたことが近代日本発展の土台となり、また現代において度々指摘される「日本人の働き過ぎ」の遠因となっている』
 この勤勉革命論については、速水門下の斎藤修(一橋大学)が、”勤勉革命論の実証的再検討”(2004年、三田学会雑誌)において、家畜の減少は厩肥から金肥(購入肥料)への転換によるものだったことを実証的に示し、論駁しています。ぼくは、梅棹忠夫の「文明の生態史観」や川勝平太の「文明の海洋史観」、村上泰亮の「文明の多系史観」などと同様、高度成長期以降、続々と登場した日本特殊論の系譜に属するものと受け止めています。
 本題に戻ります。
 江戸の貧しさは維新後も解消されませんでした。鈴木淳(東京大学)は”新技術の社会誌”(1999年、中央公論新社)において、1877年(明治10年)前後の東京では、乳幼児から老人までを含む全男性の20人に一人が人力俥夫だったと述べています。俥夫という職業は、寿命が削られるほど肉体を酷使するものでした。文明開化に沸く帝都の暗がりには、膨大な数の細民がうごめいていたのです。
 2012年3月、”完訳 日本奥地紀行”(平凡社)の第1巻が上梓されました。学生時代に読み飛ばした抄訳の内容をほとんど憶えていなかったことや、そのころ宮本常一を読み漁っていたこともあって、彼の講義録をまとめた”イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む”(2002年、平凡社)をかたわらに置いて精読したのですが、そこで出会ったのが見出しに掲げた言葉です。
 1878年5月、洋上から横浜の日本人街を眺めたバードは、その印象をIndustrious Poverty、つまり「勤勉な貧しさ」と表現したのです(以下のアドレスをクリックすると目次が表示されます。目次のLetter I.をクリックすると、15頁12〜13行目に出てきます)。

 東京から蝦夷にいたる道すがら、バードはこれでもかと言わんばかりに、懸命に働いてもせつないほどに貧しい人々の姿を記録しました。蚤と虱にまみれ、粗末な衣類に身を包んだ、けなげとしか形容しようのない人々が、野にも山にも溢れかえっていました。明治・大正期の資本家はなぜほしいままに収奪できたのか? その答えがここにあります。都市にも農山村にも貧しさが満ち満ちており、女工哀史を生んだ工場労働ですら救いに思えるほどの過酷な暮らしがあったのです。
 この勤勉な貧しさは、戦後も続きました。いまも網膜に焼きついている情景があります。春の陽を映してきらめく水田を、数えきれないほどの人影が埋めつくし、代掻きや田植えに勤しんでいます。ときおり汽笛を鳴らしながら通り過ぎる蒸気機関車を除くと、機械動力は一つとして見当たりません。まだ幼な児だったぼくは畦道にたたずんで、その様子を眺めやっていたのでした。月の満ち欠けが日々の暮らしをつかさどっていた昭和30年代初めの話です。
 それから10年も経たないうちに、田んぼの人影は激減しました。どんなに頑張っても一反当り6〜7俵しか穫れない痩せこけた土地にしがみつくより、集団就職列車に揺られて東京に出たほうが幸せになれる、土方仕事に精をだしたほうがましだ−同郷の人々はそう考えたのです。

f:id:Rambler0323:20200704134816j:plain

 写真は2011年9月、かつて同潤会三ノ輪アパートがあった東日暮里で撮ったものです。地方や海外からやってきた人たち、あるいはその子供たちの相談相手をしているせいか、東京はいまなおアリ地獄なのではないかという思いを拭いきれずにいます。