善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

二重構造論の復権

 2021年12月27日、大企業などで構成される事業者団体や経済団体を集めた会議において、岸田首相が『成長と分配の好循環を実現するため、中小企業が適切に価格転嫁を行い、適正な利益を得られるよう環境整備を行う』と異例の要請をおこなったことが報じられました。

 以下は、新しい資本主義実現担当大臣記者会見要旨からの抜粋です。

岸田内閣の目指す新しい資本主義では、株主だけではなく、多様なステークホルダーの利益を考慮する必要がありますが、従業員と並び、取引先は、重要な価値創造のパートナーです。成長と分配の好循環を実現するため、地域経済の雇用を支える中小企業が適切に価格転嫁を行い、適正な利益を得られるように、環境整備を行うことが大切です

『記者 : ・・・日本の賃金が上がらなかった理由の一つに、こういう構造があって、特に買いたたきが常態化していたという認識なのか、それとも今回そこに書かれているのは色々原材料価格が今上がっていく中で、起きうるだろうというようなことで、一次的な対応というか今後賃上げにつなげていくために、阻害するものを排除する考え方なのか、そこを教えていただければ

 山際担当大臣 : 正直申し上げて両方だと思っております。日本の経済構造、産業構造に起因する、特に製造業はですね、元請けがいて、下請け孫請け曾孫請けと、こういう構造になっていることがうまく機能してきたというのも事実なのですが、一方で、その間にですね、やはり適正な価格の転嫁というものが行われにくい、そういう産業構造になってきたということは間違えが無いわけですね

 発注企業がその優越的な地位に基づいて発注単価を不当に値切るのが当たり前という構造が蔓延しており、それが低賃金の温床になってきたことを、首相みずからが認めたという点において、この発言は画期的なものと言えます。

 2010年代に入って、低賃金が日本が長期停滞に陥った主因ではないかという主張がようやく市民権を得るようになりましたが、官庁のエコノミストや政策プランナーたちがさらに進んで、低賃金を生みだす構造的要因にも目を向け始めたことを素直に評価したいと思います。

 “ボルカー回顧録 - 健全な金融、良き政府を求めて”(2019年10月、日本経済新聞出版社)の中に、ブレトン・ウッズ体制が崩壊し変動相場制への移行が模索されていた1971年9月、ロンドンで開催されたG10の席上、米国のコナリー財務長官が『ドルは我々の通貨ですが、問題はあなたたちのものです』と言い放つ場面が出てきます。『あなたたち』が大幅な貿易黒字国であるドイツと日本だったことは、言うまでもありません。

 それから半世紀、ベルリンの壁崩壊後の難局を乗り越えたドイツ経済は、様々な問題を抱えながらも成長を続けているのに対し、同時期にバブル崩壊という難局に遭遇したわれわれの社会は、今なお苦境に喘いでいます。

 この落差をもたらした要因はなんだったのでしょうか? 

 日本のLost Decadesをめぐっては、小泉構造改革路線の理論的バックボーンとなった 林文夫(コロンビア大学東京大学等)とE.Prescott(シカゴ大学アリゾナ州立大学等)の実物的景気循環(Real Business Cycle)理論に基づく研究をはじめとして、様々な議論が展開されてきましたが、そのほとんどが主流派経済学(新しい古典派やニューケインジアン、あるいはそのキメラ)の主張を鵜呑みにしたエピゴーネンたちによるものであり、あたかも欧米のイノベーションの成果を輸入し、細部を改善しつつ模倣し、高い生産性と国際競争力を誇った日本型生産システムが新しい時代に対応できなかったように、エピゴーネンたちもまた、日本社会の衰退を食い止めるための有益な指針をまったくと言っていいほど示すことができなかったばかりか、ワシントンコンセンサスに象徴される新自由主義的な「構造改革」路線を後押しすることによって、あるいは破局をもたらす可能性の高い「実験」へと為政者を駆り立てることによって、日本社会の衰退を加速させたのでした。

  “エコノミクス・ルール - 憂鬱な科学の功罪”(2018年3月10日、白水社)や”貿易戦争の政治経済学 - 資本主義を再構築する”(2019年3月28日)などの著書で知られるダニ・ロドリック(ハーバード大学等)は、日本経済新聞が2021年8月26日に配信したインタビュー記事 ”経済学に地理的多様性を” において、有力な経済誌の著者の9割近くが米国と欧州先進国に拠点を置いており、東アジア拠点の経済学者が、有力誌に寄稿する論文の比率は、全体の5%足らずであることを指摘した上で、次のように述べています。

地域の偏りにはわけがある。(経済学は)英国で生まれ欧州大陸でも発展したが、20世紀の前半、経済大国になった米国に舞台が移る。政治的迫害や戦争を逃れ、多くの研究者が移ったことも大きい。米国の経済や社会を分析して得られた理論が、やがて主流となり、ノーベル経済学賞の受賞者を輩出する。

 こうした米国流が、多くの学者の考え方の土台にあるといわれる。しかし、米国発の理論では、日本の長期低迷の原因や脱デフレへの政策の効果などは、うまく説明できないとの指摘もある。いまの日本経済を分析し、いままでの発想の見直しを迫る発見をすれば、学問の多様さを広げることにもつながるはずだ。国内の経済学者らの踏んばりに期待したい

 昨年5月に投稿した”大西洋しか知らない田舎者”でも書いたように 、『西欧・アメリカvs.東欧・ソ連という冷戦構造の枠組みでしかインドシナ半島を捉えようとしなかったベスト&ブライテストたちと同様、バブル崩壊以降、日本の金融政策に大きな影響力を与えつづけてきたクルーグマンをはじめとする主流派経済学の大立者たちもまた「大西洋しか知らない田舎者」であり、アベノミクスを推し進めてきたリフレ派の面々は、その田舎者の口車にのせられただけの「愚者」に過ぎないのではないか』と考えていたこともあって、重鎮ロドリックのインタビュー記事が新たな議論を巻き起こしてくれるのではと期待していたので、12月27日の首相発言はとりわけ意義深いと感じた次第です。というのも、少なくとも日本では今後、玄田有史(東京大学)が懸念した「二重構造というタブー」がなくなることを意味するからです

 * “二重構造論 - 「再考」”(2011年4月、日本労働研究雑誌 No.609)を参照

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2011/04/pdf/002-005.pdf?fbclid=IwAR2OkeFd98rESs3rN8NKC3J80ee9_TE00ydbNaxiuQWVDFWwal7PqjDl85c

 バブル崩壊とオーバーラップしていたため閑却されがちですが、中国が世界の工場へと成長したことやソビエト圏の崩壊などにともなって、何億人もの労働者が資本主義市場に参入してきたことにより、二重構造に依存してきた日本型生産システムの解体が進行しており、それがLost Decadesの主因なのではないか - 次回からは、そういった視点から論考を進めたいと思っています。