ブレトンウッズ体制の崩壊と2次にわたるオイルショックは、全世界に不況とインフレをもたらしましたが、スタグフレーションに苛まれる欧米諸国をよそに、日本経済はいち早くその衝撃を吸収し、1980年代中期以降、黄金期を迎えます。高品質や省エネ技術、低価格を武器に日本の工業製品、特に自動車や電化製品などの加工組立型製品は世界市場を席巻し、エズラ・ヴォーゲルのベストセラー”ジャパン・アズ・ナンバーワン(Japan as Number One: Lesson for America)”に象徴されるように、日本的経営の優位性が喧伝されるに至りました。
では、日本的経営とは何だったのか。日本型生産システム、中核労働と縁辺労働、労使関係など様々な側面から多角的にアプローチしていきたいと思います。
中小企業や下請制を研究してきた植田浩史(慶應大学)は、高度成長期におけるトヨタをはじめとする自動車産業の下請制度に関する論文”日本における下請制の形成 - 高度成長期を中心に”(2009年、三田学会雑誌)において、データを駆使しながら、絶えず繰り返されるコストダウン要求への対応に苦慮する下請け企業の姿を描いています。
特に注目したいのは、発注単価の算定に当たって下請企業の「直接工賃(時間当たり工賃×工数)」が用いられており、さらに時間当たりの工賃がトヨタの職工の工賃を大幅に下回っていることです。厳しいコストダウン要求に対応するため、下請企業は賃金水準の低い臨時工や若年者の採用を増やしたり、より工賃水準の低い再下請の活用を図ります。その結果、ピラミット型下請構造の形成を通じて、格差と貧困の再生産がなされていったのではないかと考えています。
これはなにも自動車産業に限ったことではありません。植田は”現代日本の中小企業”(2004年3月、岩波書店)において、中小企業の経営形態として最も一般的なのは下請であり、1960年代から増加し始めた下請企業数は、ピーク時の1981年には中小企業の70%にのぼったことを明らかにしています。つまり日本の製造業全体で、ピラミット型下請構造の形成を通じた格差と貧困の再生産がなされていたことになります。
賃金コストの低減を図るため、様々な手法が試みられましたが、その一つが工場の地方展開です。地方から大都市圏への余剰人口の供給が減少し始めた1960年代以降、大企業や中堅企業は北関東や東北地方、中部地方などの農村部に、続々と工場を設立していきました。農家の主婦など農山村に眠っている労働力を活用するためです。高速道路や新幹線などの高速交通インフラの整備や、地域振興策として工場誘致が進められたことも、これを後押ししました。もっとも、地方進出の動機はそのほとんどが、最低賃金に近い水準で雇うことができる、熟練を必要としない労働力の確保にあったので、冷戦が終了し旧社会主義諸国や中国本土の安価な労働力市場が開放されると、地方工場の多くは競争力を失って閉鎖される運命だったのですが。
『中小企業労働問題を現代日本の企業社会の重要な社会問題の一つとして位置づける中村眞人氏は次のように述べている。中小企業労働問題は,中小企業経営者と大企業により,「二重に支配された多数者の,賃労働の問題」として把握されるとする。
また,現代の「企業社会は,中心・周辺の両極にさまざまな位置を占める諸要素の不均等発展によって性格づけられる。生産構造における大企業と中小企業,労働市場における核労働力と縁辺労働力,地域社会における都市と農村,こうした中心・周辺関係を再生産することによってのみ,企業社会は再生産される。ある部分の発達が遅れているのは,単に発達の速さが違うからだけでなく,中心が周辺を収奪・支配する関係が存在し,この関係が再生産されるからである」という。
中村真人氏は,とりわけ階層的生産構造に注目し,「大企業は最小費用となる資源の組み合わせを求めて,社会の不均等発展の構造を,生産に意識的に適用する」と指摘し,中小企業労働が大企業を頂点とした生産構造に組み入れられることの帰結として,次の二点を挙げる。
まず第1に,「大企業における労働力需要の柔軟化は,中小企業における雇用の不安定化を必然とする」ということ,第2に「中小企業労働を生産構造に組み入れることによる労務費の低減は,中小企業における相対的に低い労働条件と不可分である」いうことである。