善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

Lost Century (4) 二重構造とルサンチマン

 有沢広巳が日本経済に特有の二重構造問題を指摘する3年前の1954年(昭和29年)、アーサー・ルイスは、二重経済モデル(dual-sector model)を提唱しました。以下はWikipediaからの引用です。
『伝統的な農業部門からの余剰労働力を現代的な工業部門が吸収することで、工業化並びに持続的な発展が促されるという理論である。
 このモデルでは、伝統的な農業部門が労働集約型産業であることから、低賃金や豊富な労働力、そして低生産性に特徴づけられている。また、これとは対照的に、現代的な工業部門は農業部門よりも賃金や限界生産力が高く、労働力に対する需要も大きい。その上、資本集約型産業で利潤が再投資されるため、投資や資本形成が恒常的に可能である。 その結果、農業、工業各部門における賃金格差から、余剰労働力は高賃金を求めて常に農業部門から工業部門へと流れる。こうして多くの労働者が農業部門から工業部門へと移動すると、誰であるかに関係なく福利厚生や生産性が改善されるわけである。
 労働力が追加投入されることにより工業生産が増える一方で、農業生産全体は変わらないものの、追加的労働力は製造業での限界生産力や賃金を押し下げる方向にも働く。こうして事実上農業、工業両部門における賃金率は平準化され、製造業の生産性や賃金が下降する一方で農業の生産性や賃金は増加する。工業部門では労働者が最早金銭によるインセンティブを持ちえなくなるため、これ以上の拡大は起こらない』
 経済発展が進むと、やがて農業部門の余剰労働力が払底する時を迎えます。これが前にも述べたルイスの転換点(Lewisian Turning Point)です。再びWikipediaから引用させてもらいます。
『工業化前の社会においては農業部門が余剰労働力を抱えている。工業化が始まると、低付加価値産業の農業部門から都市部の高付加価値産業の工業部門やサービス部門へ余剰労働力の移転が起こり、高成長が達成される。工業化のプロセスが順調に進展した場合、農業部門の余剰労働力は底をつき、工業部門により農業部門から雇用が奪われる状態となる。この底を突いた時点がルイスの転換点である。
 日本においては1960年代後半頃にこの転換点に達したと言われる』
 しかし、日本経済に特有の二重構造は解消されませんでした。つまりルイスの転換点を迎えたのちも、日本の工業部門内部には低賃金に依存する労働集約的で、かつ生産性の低い部門(=中小・零細企業)が階層的に堆積しており、日本型生産システムないし日本型経営は、その階層的な構造がつくりだす低賃金を意識的に利用し、かつ景気変動に対する調整弁とすることにより、国際競争力を維持したのです。
 再三にわたって引用する中村眞人(東京女子大)は、”現代日本の労働問題 - 新しいパラダイム求めて”(1993年12月、ミネルヴァ書房)の”第4章 中小企業の労働者 - 企業社会の周辺部”の冒頭部で次のように述べています。
『・・・中心・周辺構造概念は、主として先進工業諸国経済による低開発諸国経済の支配と収奪の構造と過程を分析することによって、その有効性を示してきた。・・・本章では、中小企業労働を、日本資本主義の不均等発展の中で再生産され続ける国内の周辺部の出来事として、また日本主義経済の中心部(注:ピラミッド構造の上位にある大企業・中堅企業)によって支配されるものとして、その実態を明らかにする』
『生産構造における大企業と中小企業、労働市場における核労働力と縁辺労働力、地域社会における都市と農村、こうした中心・周辺関係を再生産することによってのみ、企業社会は再生産される』
 日本型生産システムが頂点を極めた1980年代後半においてさえ、この二重構造は解消されませんでしたが、4月2日の投稿で述べたように、1985年のプラザ合意や89年に起きたベルリンの壁の崩壊により、この構造は競争力の源泉から社会全体の桎梏へと180゜転回しました。すなわち、1957年(昭和32年)の経済白書が警告していたように、「所得水準の格差拡大を通じて社会的緊張を増大させ」ているのです。
 日本社会が直面している諸問題の解決するためには、この病巣を除去することからスタートする必要があると考えていますが、その議論に先立って、まず二重構造が日本の政治状況をどのように規定してきたかについて、触れておきたいと思います。このことは、僕が一連の投稿をするに至った動機にも関連しています。
 留年生活を送っていた1974年6月、駒場寮のルームメイトだった同級生のMくんと一緒に、安田講堂事件分離公判を傍聴したことがあります。受講していた社会学特殊講義の担当教官だった折原浩(当時は教養学部助教授)による特別弁論を聴くためでした。弁論の内容はまったく憶えていません。折原先生については今も尊敬してはいますが、たぶんさほど心に響くものがなかったからだと思います。ただ、開廷前のロビーで交歓する被告人たちの姿に衝撃を受けたことだけは、45年たった今も忘れられません。 ”怒れる若者たち”の一員として、中学3年のときから身を投じていた運動が、あくまでもエリートたちによる大学批判・体制批判に過ぎなかったことに、そのとき初めて気づかされたからです。仕立てのいいスーツに身を固めて談笑する被告人たちの姿は、貧しさにあえぐ故郷の農民や漁師たち、集団就職列車に揺られて上京する同級生たちの不安げな顔、あるいは菩提寺のお堂に飾られていた帰郷を果たせなかった出征兵士たちの遺影といった、自分の怒りの原点となったイメージとは、あまりにもかけ離れたものでした。
 橋本健二(早稲田大学)の”「格差」の戦後史” (2009年10月、河出書房新社)は、1960年代の若者群像について、次のように述べています。
団塊の世代が20歳前後に達した60年代後半になると、彼ら・彼女らの間に独自の若者文化が形成されるようになった。青年層に独自のサブカルチャーが形成されるようになったのは、先進諸国共通に60年代だといわれる。日本もまさにそうであり、彼ら・彼女らの青春は、戦後日本の青春でもあった。
 しかし、若者たちの間には深刻な格差があった。もちろん格差は以前からあったのだが、この時期に生み出されたのは、貧しい農村で暮らす若者たちと、華やかな都会で暮らす若者たちといった、無関係に生活する者どうしの格差ではなかった。同じ都会で暮らす若者たちの間の格差、つまり、一方では大学生やエリート社員、中上流のお嬢様たち、他方では集団就職の工場労働者や下町の住人たちなど、お互いの姿が目にみえる格差だったのである』
 南東北の僻村にルーツをもつ僕が、東京地裁で感じた違和感の源は、あるいはこの格差だったのかもしれません。
 では、格差は政治にどのような影響を与えたのか。橋本は格差が再び拡大しつつあった1985年のSSM調査データに基づいて、次のように推測しています。
『・・・格差拡大は、まず中小零細企業労働者の貧困化をもたらした。ところがこの時期、中小零細企業労働者の生活の不満は革新政党への支持には結びつかず、むしろ自民党支持へと向かっていたのである。おそらくは、離陸を果たして生活水準を向上させた大企業・官公庁労働者に取り残された中小零細企業労働者たちは、さらなる労働条件の向上を訴える巨大労働組合と、これに支えられた革新政党に見切りをつけたのではないだろうか。この動きには、2005年の郵政選挙自民党を支持した人々の行動とも通ずるものが感じられる』
 中小零細企業や非正規雇用の労働者たちが、大企業の労働者や官公労組合員の生活水準の向上が自分たちを見捨てることによって達成されたものであると直感し、激しいルサンチマンを抱いていたことは容易に推測できます。また、この感情は1980年代以降に生まれたものではなく、60年安保闘争の最中に岸信介首相がいった「声なき声」として、あるいは1973年に起こった上尾暴動などの背後で、連綿と息づいていたのではないかと考えています。

f:id:Rambler0323:20200704143414j:plain

 アップした写真は2007年の師走、芭蕉庵のあった江東区常盤(旧町名は深川常盤町)で撮った、デパートなどで使わとしてれる包装資材用の糊をつくっている家族経営の町工場です。蒸気や冷水を扱うため「儲からない割にきつい仕事」とのことですが、ご主人の顔にはモノをつくっている人だけが味わうことのできる満足感のようなものが浮かんでいました。