善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

When the music stops

 世界金融危機直前の2007年7月、当時、世界最大の銀行だったシティグループのCEO チャールズ・プリンスは取材に対し、When the music stops, in terms of liquidity, things will be complicated. But as long as the music is playing, you’ve got to get up and dance. We’re still dancing.”と語り、金融史に不名誉な足跡をしるすことになりました。

 2003年から13年までイングランド銀行(英国の中央銀行)の総裁を務めたマーヴィン・キングは、”錬金術の終わり - 貨幣、銀行、世界経済の未来”(2017年5月25日、日本経済新聞出版社)において、プリンスの言葉を引用しながら、当時、金融機関が陥っていたジレンマについて論じています。

 

『銀行もまた、囚人のジレンマに直面した。もしも危機の前に、リスクの高い貸し付けから手を引き、複雑なデリバティブ商品を買うのをやめ、レバレッジを引き下げていたら、短期的には収益で競争相手に負けていただろう。新しい戦略が正しいことが明らかになるころには、CEOはとっくに職を追われていただろうし、他のスタッフも、リスクを選好してボーナスをもっと払ってくれる銀行にさっさと移っていただろう。たとえリスクを理解していても、群衆に従うほうが安全だった。このジレンマを言い表しているいちばん有名な言葉は・・・チャック・プリンスCEOの・・・「音楽が流れている限り、立ち上がって踊り続けなければならない。我々はまだ踊っているのだ」。2007年11月に音楽がようやく鳴りやむまで、プリンスはおどりつづけ、そこで仕事を失った』(注 : ただし、1,250万ドルの退職金は抜け目なくものにしました)

 

 世界金融危機の引き金となったサブプライム・ローン問題の発端は、2006年から2007年にかけての金利上昇でした。金利の上昇は住宅をはじめとする資産価格の下落を意味します。というのも「資産価格」とは、不動産であれ株式であれ、将来にわたって得られるリターンの現在価値であり、将来価値を金利で割り引くことにより算出されるからです。つまり金利が下がれば資産価格は上昇し、金利が上がれば資産価格は下落するという理屈です。

 世界金融危機以降の緩和的な金融政策により、資産価格は世界的な規模で上昇を続けてきましたが、緩和的な金融政策からの出口戦略を推し進める途中でコロナ禍が勃発し、戦時にも比肩すべきスケールで財政出動がなされたため、資産価格の上昇は加速しました。

 

 しかし、音楽もいつかは止むときを迎えます。

 この夏以降、ニュースサイトにおいて懐かしい名前を見かけるようになりました。かつて世界金融危機の到来を予測したふたりの人物が、再び音楽が止むときが迫っていると警告を発しているのです。

 ひとりは、2005年のジャクソンホール会議において金融危機の到来に警告を発したラグラム・ラジャンです。当時IMFのチーフエコノミストを務めていたラジャン(のちにインド中央銀行総裁)は、”金融の発展は世界をよりリスキーにしたか? “というタイトルでプレゼンテーションを行いました。著書”フォールト・ラインズ - 「大断層」が金融危機を再び招く”(2011年1月、新潮社)において、ラジャンはウォールストリート・ジャーナルの記事を借りて、その内容を紹介しています(なお、このプレゼンテーションは、当時「マエストロ」と呼ばれ崇められていたグリーンスパンFRB議長の業績を否定するものだったため、参加者たちからの総攻撃にさらされました。ラジャンはその時の様子を、『・・・ふだん礼儀正しい会議の聴衆の反応は予想を超えていた。飢えかけたライオンの集いに迷い込んだ初期キリスト教徒のような心地がした、というのは言い過ぎだろうか』と書いています)。

 

『金融セクターを動かす誘因は、恐ろしいまでにゆがめられていた。金融関係者は利益を出したときにはたんまりと褒美をもらい、損失を出したときにはほとんど罰を受けなかった、とラジャン氏は述べている。それにより金融機関は、大きな儲けにつながる可能性のある複雑な商品への投資にいそしんだが、そういう商品はえてして派手な失敗をもたらす恐れがある。

 ラジャン氏は、債務不履行に対する保険であるクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)について、保険会社その他はリスクが小さいように見せかけてこの商品を売って大きなリターンを得ていたが、実際に債務不履行が起きた場合、被害はきわめて大きくなる可能性があった、と指摘している。

 ラジャン氏はまた、銀行は自らの帳簿から生み出した証券化された債券の一部を保有しているので、その証券に問題が起きた場合には、金融システムそのものが危険にさらされると論じている。銀行同士の信任が失われ、「銀行間の市場がフリーズし、それが全面的な金融危機を招きかねない」と。

 ほぼそのとおりのことが、2年後に起きた』

 

 かつてラジャンは世界金融危機後のテーパリングが早すぎると批判しましたが、この夏以降、遅すぎると警告を発するようになりました。例えば日本経済新聞、9月1日と9月17日にラジャン氏の警告を伝える2つの記事を配信しました。

 どちらの記事もインフレが到来する可能性が強まっていることを警告する内容ですが、二つ目の記事では、最低賃金の引き上げなど労働者保護の強化および大規模な財政出動が、賃金と物価に持続的な上昇圧力となると、その理由にも触れています。米国の限界消費性向(c)は0.6ないし0.7といわれており(日本は0.1未満)、乗数効果(1/1-c)も2.5ないし3.33と極めて大きいことから、説得力があります。

 インフレの可能性が高まれば、金利は上昇していきます。代表的な指標である米国10年国債の利回りは2020年7月を底に反転しており、テーパリングの進展や国際商品価格の高騰、サプライチェーンの世界的混乱などを考えあわせると、今後も上昇をつづける可能性を否定できません。

 

 もうひとりの懐かしい人物は、マイケル・ルイスのベストセラー”世紀の空売り”(2010年9月、文藝春秋)に登場する主人公の一人、アスペルガー症候群をかかえた隻眼孤高のバリュー投資家マイケル・バーリです。

 ブルームバーグは2021年8月23日、バーリが iシェアーズ米国債20年超ETF( iShares 20 Plus Year Treasury Bond ETF)のプットオプション(売る権利)280,000,000ドル(10月22日現在のレートで約317.7億円)相当を保有していることを報じました。 

 バーリは決して博奕打ちではありません。”世紀の空売り”の中に、彼の投資スタイルを象徴する次のような一節があります。地道に情報を収集・精査して投資先を決定する、バリュー投資の王道を歩んでいることが読み取れます。

 

『どのモーゲージ債にも、血の気が失せるほど退屈な130ページの目論見書が添付されていた。そこに書かれた細かい文字を読むと、それぞれが独自の小さな法人になっていることがわかる。バーリは2004年末から2005年初めにかけて、何百通もの目論見書を通読し、何十通かを精読した。年間100ドルの料金を支払えば、誰でも全部の目論見書を<10Kウイザード・コム>から入手できるのだが、それをここまでちゃんと読み込んだ人間は、本文を起草した弁護士たちを除けば、おそらくバーリただ一人だろう』

 

 バーリは何を根拠にプットしたのか ? ”世紀の空売り”の続編を期待したいところです。

 

 長くニューヨーク・タイムズの書評欄を担当した角谷美智子は2013年2月7日、アラン・ブラインダーの著書”After the Music Stopped: The Financial Crisis, the Response, and the Work Ahead”の書評に”When Dancing Ended, and Disaster Set in”というタイトルをつけました。次に音楽が止んでダンスパーティがお開きになるとき、不動産を筆頭にMBSレバレッジド・ローン、CLO、CDOなどの債券、株式、暗号通貨などの資産市場にどのような惨事が降りかかってくるのか。また、資産市場における惨事は我々の社会や暮らしをどのように揺さぶるのか。気の休まらない日々が続きそうです。