善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

Hotel California を追われる日銀

 2010年3月3日、ダラス連邦準備銀行の総裁だったRichard W. Fisherは、FRBの超緩和的な金融政策について、イーグルスのヒット曲”Hotel California”の歌詞 - You can check out any time you want. But you can never leave. - を引用して、バランスシートの膨張が出口戦略を困難化させると警告を発しました。

https://jp.reuters.com/article/us-usa-fed-fisher/feds-fisher-worried-about-hotel-california-monetary-policy-idUSBRE8BD0IJ20121214

 この警告はFRBだけでなく、3Lows(低成長、低インフレ、低金利)の常態化に超緩和的な金融政策により対応している他の中央銀行にも当てはまります。もちろん我らが日銀も例外ではありません。

 短期金融市場のバイブルといわれる”東京マネーマーケット”(最新版は2019年11月22日、有斐閣)の編集代表である加藤出(東短リサーチ代表取締役・チーフエコノミスト)は、”日銀、「出口」なし!”(2014年7月30日、朝日新聞出版)を”Hotel California”の歌詞の紹介からはじめ、あとで詳しく紹介するように、異次元緩和の出口に絶望的ともいえる困難が待ち構えていることを指摘しています。

 また、長く量的緩和政策に批判的な立場をとってきたリチャード・クー(野村総合研究所)は、2014年12月5日の講演”バランスシート不況からの脱却と量的緩和の罠”において次のようなエピソードを披露した上で、出口戦略のない量的緩和政策を厳しく批判しました。

http://www.camri.or.jp/files/libs/428/201703271641472782.pdf

『2013年、ワシントンでFRBの高官に会う機会があり、ある質問をしてみました。量的緩和をやるべきだという学術論文は数多くみたが、どうしたら量的緩和を解除できるのか書かれた論文を私は1本も見たことがない。あなたはどうかと。その人から返ってきた答えは「私も1本も見たことがない」でした。つまり、FRBも手探り状態、マーケットも手探り状態、学界もまったくの手探り状態なのです』

 日銀は2016年1月、マイナス金利政策を導入しましたが、政策金利をマイナスにしたことにより長期金利が低下してイールドカーブがフラット化たため、金融機関の収益悪化、年金等の運用利回りの低下、家計マインドの悪化といった副作用が顕在化したのに加え、それまでのペースで大量の国債を買い続けた場合、市場から国債が払底してしまい、物理的に買うことが難しくなってしまうという事情もあって、同年9月、イールドカーブ・コントロール(YCC、正式には「長短金利操作付き量的・質的緩和」)を導入しました。中央銀行の金融政策は短期金利の操作を通じて行うのが大原則でしたので、長期金利もコントロールしようとするこの試みは極めて異例なものであり、結果的に日本の長期金利は極めて低い水準に、人為的に固定されることになりました。

 なお、当時は先進国・新興国ともに成長率の低下、インフレ率の低下などに悩まされ、いわゆる経済の「日本化(Japanization)」現象への懸念が高まっていましたが、他の中央銀行は「長期金利市場メカニズムに委ねる」という大原則を堅持し、長期金利に手を出したのは日銀だけでした。

 2016年5月まで日銀理事だった門間一夫(みずほリサーチ&テクノロジーズ)は、イールドカーブ・コントロール導入5周年に当たって寄稿したコラム”2%目標は終わった話だが、異次元緩和はニューノーマルへ”(2021年10月5日、ロイター)において、次のように述べています。

https://jp.reuters.com/article/column-monma-kazuo-idJPKBN2GV0GT


『今日に至るまで、イールドカーブ・コントロールは「効果と副作用のバランスに配慮して金融緩和の持続性を高める」というその目的を、ほぼ完ぺきに果たしてきた。 ・・・8年半かけて進化を続けた今の異次元緩和は、副作用という点でも死角がほぼない完成形に近づいた。2%物価目標という主戦場で勝てる当てがない以上、それでも戦うなら異次元緩和はずっと続けなければならないが、「ずっと続けられるようにする」という局地戦では、日銀がほぼ完全勝利を収めている。今の異次元緩和には、もはやパワーも驚きもないが、代わりに「永遠の命」がある。日本の金融政策はひとつの均衡点に達した。いずれ異次元とも呼ばれなくなり、現状がニューノーマルと化していくだろう』

 何のことはない、YCCはいつまでもHotel Californiaに安住し続けるためのもの、換言すれば、半永久的に金融緩和を続けるためのものだと言うのです。

 門間は財政破綻やインフレ、資産バブル等のリスクに関しても書いています。

『日銀の国債買い入れは財政ファイナンスではないか、という批判も時々聞かれる。しかし、インフレのリスクがほとんどない日本で、今の財政赤字が過大だとは考えにくいし、まして金融政策のせいで国債が過剰に発行されているという因果関係を示す証拠はどこにもない。家計にも企業にも金融機関にも潤沢にキャッシュが眠る日本では、日銀などに頼らずとも必要な国債は発行できる。バブルなど金融面の不均衡も蓄積されている気配はない』

 このコラムが書かれたのは昨年の10月上旬。つまり門間は、ラグラム・ラジャンやローレンス・サマーズなどが迫りくるインフレについて繰り返し警告を発し、国内においてもサプライチェーンの混乱や円安等によるコストプッシュ・インフレ、あるいはスタグフレーションについての議論が高まりを見せていたにもかかわらず、低インフレ・低金利は延々と続く - 日銀の公式見解と同様、賃金の持続的な上昇を伴わないインフレは一時的なもので、海外のインフレ要因が剥落すれば消費者物価指数は再び下落する - ので、いつまでもHotel Californiaに滞在し続けられると考えていたわけです。

 しかし彼の希望的観測は裏切られることになりそうです。集金人がやってきたのです。(2021年2月7日の記事”集金人の到来”参照)

 4月28日、日銀は金融政策決定会合において現行の金融緩和路線を堅持するとともに、長期国債の利回りが0.25%を超えないよう無制限で買い取る「連続指し値オペ」を原則として毎営業日おこなうという新たな方針を打ち出しました。YCCの放棄、ないしYCCの利回り幅の拡大(現在は0±0.25%)を求める市場との全面対決です。市場はドル買いで応戦し、ドル円レートは131円台に跳ね上がりました。

 小幡績(財務省慶應義塾大学)はこの決定を、”日銀、永久指値オペで自滅 日本敗戦”という刺激的なタイトルの記事において、激しく批判しています

彼らは、マーケットの戦いをわかっていないのだろう。これでは、ヘッジファンド、トレーダーの思うつぼだ。

 ・・・トレーダーは、国債先物で売りまくる。同時に円も売り浴びせる。国債市場では、海外トレーダーはマーケットを支配できないが、為替市場では支配できる。

 ・・・国債市場で指値オペで日銀がトレーダーを撃退したように見えても、それは彼らを確実に儲けさせるだけだ。なぜなら、彼らは円を売り、円は暴落する。国債先物で売っている。現物国債市場は日銀が支配し、0.25%で買う。ところが、国債先物市場では0.25%を超えて利回りが上昇する。そうすると割安だから、国債先物を0.26%で国内トレーダー、国内投資家が買って、現物を日銀に売る。裁定取引で確実に儲かる。

 海外トレーダーは、国債先物ではわずかに損をするように見えるが、実際は、円が暴落しているから、ドルベースで考えれば、国債の買戻し価格はドル建てでは安くなる。だから、ドルベースでは儲かる。永久に儲け続けられる。

 円安は絶対に止まらない。なぜなら、このトレードを続ける限り円安が進み続けるからだ。どこかで、日銀は円安を止めるためにギブアップせざるを得ない。その時、国債は暴落し、海外トレーダーの売りポジションは大儲けとなる。

 彼らは、ここでいったん力をためて、国債市場を殺してから、つまり、0.25%で日銀がくぎ付けにするから、普通の取引者は国債を売買しなくなる。市場が成立しなくなる。その状態から一気に売り浴びせれば、短期決戦で勝ちやすくなる。あるいは、今日から即時に攻め立てる。いずれにせよ、万が一、今日負けても、次には彼らが大勝ちするだろう。終わりだ

 金融政策決定会合の結果を正確に予測した加藤出(東短リサーチ)は、会合初日の4月27日に東洋経済が配信したインタビュー記事”円安加速、日本銀行は「行くも地獄退くも地獄」”において、日銀を取り巻く状況について解説しています。

https://toyokeizai.net/articles/-/58531

 まずYCCが円安を加速させているという認識を示した上で、以下のように推測します。

『現時点では政府と日銀の間で、「今般のインフレに金融引き締めでは対処せず、物価上昇の影響に脆弱な家計や企業には補助金や給付金などの財政政策で対処する」という合意があるように見受けられる』

 その背景には、黒田総裁が「円安は日本経済にとっていいことだ」と信じており、「日銀は間違った政策をやっている」という認識がないことがあり、政府にもコロナ禍への対応で国債発行が急増している現在、YCCの変更による国債利払いの増加は都合が悪い、また、多額の資金を借り入れている中小企業等への影響を考慮すると金利の上昇は避けたいという思惑があることを指摘した上で、次のように続けます。

『今の政府や日銀も、どこかで「アメリカのインフレや金融引き締めがピークアウトしてくれるのではないか」という望みの中で、判断を先送りしている。それでうまくいったケースは歴史上あまりない。どこで決断するか、だろう』

 そして最後に、このまま円安を止められなければ円からのキャピタルフライトが加速するのではないか、というインタビュアーの問いに対して、次のように回答しました。金融市場の実情に精通しているエコノミストの見解だけに、リアリティがあります。

円安を止めなければならない場合は、まずはYCCをやめて中長期金利市場メカニズムがある程度働くようにする。仮にそれでも円安が止まらないとすれば、付利(短期金利)のマイナス金利解除という順番ではないか。

 ・・・万一、YCCをやめて、日銀当座預金への付利(短期金利)をゼロ金利に戻しても円安が止まらないとすれば、状況はかなり深刻だ。円安にブレーキをかけるために市場の短期金利を上昇させようと付利を1%にすれば5.6兆円、2%なら11.2兆円の年間の利払いが日銀に発生する。そうなったら日銀は短期間で債務超過になる(日銀の純資産は2021年3月末約4.5兆円)』

『現時点では極端なたとえに感じられるかもしれないが、日銀が悪い円安を止めるために付利(短期金利)を5%くらいまで上げると、利払いは年28兆円だ。強烈な債務超過に陥り、政府は国債を大規模に発行して日銀にそれを買い支えさせながら、日銀に公的資金を注入するという、たこが自分の足を食べるようなことになるだろう

将棋でいうと「詰み」の状態だ。最悪の事態も意識し、的確な対応を始める必要があり、加えて海外のほとんどの先進国のように財政健全化の方向性を示すことも必要だ

 いま日米の金利差は日ごとに拡大しています。

 加えて、2021年3月から2022年3月までの間に、ドルの実効為替レートが6.87%上昇したのに対し、円の実効為替レートは5.59%下落しています。通貨バスケットベースでの10%の上昇が1%の金利上昇、10%の下落が金利1%の下落に相当すると仮定すれば、実質的な金利差は更に拡がっていることになります。

 キャピタルフライトが加速し円の信頼が失墜するとき、何が起こるのか。そしてHotel Californiaを追われた日銀はどこへ行くのか。

 歴史的な実験の結果がもうじき判明します。