善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

共同幻想としての日本型雇用システム(3)

 高度経済成長の原動力の一つは、無尽蔵ともいえる低廉な労働力でした。高度経済成長も終盤にさしかかった1966年(昭和41年)に上梓された”日本産業百年史”(有沢広巳監修)を締めくくる一章において、向坂正男(向坂逸郎の弟)は、
『また労働力の豊富、低廉なことは、戦後の産業発展にとって有利な条件だったが、近年は急速にその様相を変えつつある・・・若年労働力の新規供給の減少と賃金の高騰は、人海戦術による増産あるいは低賃金を基盤とする輸出増加をはばむ要因となっている・・・』
 と述べて、復興期ないし高度成長期における国際競争力の源泉が、低廉な労働力だったことを認めています。
 軍需産業の消滅や生産設備の極度の疲弊などにより、敗戦直後の大都市圏には失業者が溢れかえっていました。空襲で住居兼仕事場を失った職人や商店主、さらには復員した兵士や外地からの引揚者たちもその群れに加わりました。
 やがてドッジラインにより破局の淵に立たされていた日本経済が、朝鮮戦争を奇貨として復興の軌道にのると、地方が抱えこんでいた余剰労働力が吐き出されることになりました。
 まず中学校を卒業した子供たちが集団就職列車に揺られて都会へと向かいました。少年たちがたどり着いた先は、終身雇用や年功序列型賃金とは無縁の零細な町工場や家族経営の商店、飲食店でした。熟練工の卵として大企業や中堅企業に迎えられるという幸運に恵まれたのは、ごく一握りに過ぎなかったのです。少女たちも似たり寄ったりの境遇でしたが、熟練を必要としない紡績工場や三種の神器の組立加工ラインなどで働くことができた者も少なくありませんでした。ただし、大企業や中堅企業に就職したからといって、彼女たちが終身雇用や年功序列型賃金の恩恵に浴したわけではありません。熟練を要しない仕事は、じきにより安い労働力を供給できる土地、すなわち香港や台湾へと去っていったからです。
 高度経済成長期に入り大都市圏と地方の生産性・賃金格差がいっそう顕在化すると、大人たちも大都市圏へと鉄路をたどりました。薪炭からガスへという家庭のエネルギー革命が、中山間地域の暮らしを支えてきた薪炭業を根絶やしにしたことや、輸入用材の急増による林業の衰退の影響も見逃せません。勤勉さ以外これといった才覚もない彼らもまた、終身雇用や年功序列型賃金と無縁であったことは言うまでもありません。
 では終身雇用・年功序列型賃金・企業内労働組合という日本型雇用システムのインサイダーたちは、どこからやって来たのか。国立公文書館アジア歴史資料センターがわかり易く解説しています。
 

 このコラムに描かれている工場労働者たちに加えて、出征した職員たちの穴を埋めるために大量に採用された国鉄など公共企業体の職員もまた、インサイダーとなる切符を手にしました。
 もっとも、『こうして1950~60年代の高度経済成長を背景に、大部分の日本企業ではホワイトカラー・ブルーカラー問わず、年功序列の昇給(年功賃金)を前提とした終身雇用制が定着していきます』という一文はいただけません。前にも述べたように、いわゆる日本的な雇用システムの恩恵に浴した労働者は、大企業や中堅企業の社員、公務員、旧公共企業体職員などに限られていたと推測できるからです。   
 つまり日本型雇用システムという共同幻想の背後には、アウトサイダーたちの貧困とルサンチマンが渦まいていたのであり、今もなお我々の社会を蝕み続けているのだという視点が、すっぽり抜け落ちているからです。

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アップした写真は2009年3月に養家のある会津若松市内で撮ったものです。この街でぼくは23歳から26歳までの4年間を過ごしました。雪を目にするたびに今も脳裡をよぎる情景があります。雪蓑に身を包み炭俵を背負った男たちの隊列が、険しい峠道をのぼっていく、そんなワンシーンです。それはぼく自身が目撃したものではなく、明神岳山系の山間で生涯を終えた老人が語ってくれた思い出話をもとに、大脳皮質が勝手に紡ぎ出したものです。「若がったから10俵(1俵はおよそ15kg)は背負ったんだ・・」雪深い山里がはぐくんだ朴訥な声が、いまなお耳の奥に谺し続けています。