『日本型雇用の見直しは、実はこれまでも議論されてきたテーマでもあります。日本では2000年代の初めに、成果主義的な賃金制度を導入する企業が相次ぎました。しかし、短期的に成果に結び付く仕事に人気が集中したり、成果が出たようにうまく見せる人が評価されたりしてうまくいかず、多くの企業で定着しませんでした。日本企業が、高度成長期に高い品質の商品を生み出し競争力を保つことができたのは、一部の「優秀」な社員の力だけでなく、目立たないところで汗をかいている「普通の人たち」の献身的な働きとチームワークがあったことも忘れてはなりません。雇用の仕組みを変えるということは、働く人たちとその家族の生活に直結します。それだけに、これから本格化する労使交渉では、新しい時代にふさわしい雇用の仕組みはどうあるべきなのか、そしてそれが働く人やその家族の幸せに本当につながるものなのか、真剣に議論してほしいと思います』
と結んでいます。
この記事の問題点は、”総資本vs総労働”という手垢にまみれた幻想を出発点にしていることです。戦後復興期から高度成長期を経て現在に至るまで、総資本というものは存在せず、大企業や中堅企業、官公庁、公共企業体と、それらから分断された子会社や系列化された下請け中小企業、地方企業があったに過ぎません。同様に、総労働と呼べるような機構も存在せず、大企業や中堅企業、官公労の労働組合と、それらから分断された、その多くは組織化されない中小企業の労働者や非正規雇用の労働者、地方在住の労働者、移民労働者がいたに過ぎません。
日本における労働組合組織率は、高度成長期(1954年〜1973年)でさえ36%を超えたことはありませんでした。その後は一貫して低下し続けており、2019年の組織率は16.7%まで低下しています。記者のいう『高度成長期・・・目立たないところで汗をかいていた普通の人たち』の多くは、日本型雇用システムとは無縁のところで働いていたのです。