善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

Lost Century (3)日本型生産システムの終焉

 日本社会が2次にわたるオイルショックを克服し、繁栄の頂点に向かっていた1970年中頃から90年代初めにかけて、日本型経営とその中核をなす日本型生産システムが注目を浴びたことは、以前の投稿でも触れましたが、この時期、かつては日本経済の病巣として認識されていた二重構造ないし中小企業問題を、逆に日本経済の活力の源泉として評価する論調が大勢を占めるようになりました。
 前回も登場いただいた植田浩史(慶應大学)は、”現代日本の中小企業” (2004年3月、岩波書店)の第2章”『中小企業白書』を読む”において、70年代に入り中小企業の位置づけと役割が「問題型中小企業認識」から「貢献型中小企業認識」へ大きく変化したことを述べたのち、次のように書いています。
『1980年代になると、前述したように80年7月「八〇年代中小企業政策ビジョン」が発表され、中小企業を活力ある多数、地域社会の担い手として積極的に位置づけていた。白書(注:中小企業白書)もこうした活力ある多数、ソフトな経営資源、地域社会の担い手をキーワードに・・・叙述されていくようになる』
 そして彼自身も、こういった認識に基づいて描かれた中小企業像を『21世紀に向けた中小企業像としては妥当な内容であろう』と肯定しています。
 植田は”現代日本の中小企業”の後半を、1990年代以降、日本経済の長期的な低迷を受けて苦境に陥った中小企業を再生させるための課題の整理や方向性の検討に費やしていますが、そもそも日本型生産システムについての基本的な認識を誤っているため、官庁プランナーたちと同様、願望を並べただけの空疎な言葉遊びに終始しているように見えます。高度成長期以降、徐々に日本社会を覆っていった日本的経営(日本型生産システムと日本型雇用システム)の優位性、あるいは世界に冠たる日本の製造業といった共同幻想が、中小企業の研究者をも呑みこんでいたことが推測できます。
 玄田有史(東京大学)は、”二重構造論- 「再考」"(2011年4月、日本労働研究雑誌No.609)において、1990年代初めに開かれた労働経済学の会議でのエピソードを「二重構造というタブー」という見出しで紹介したのちに、次のよう嘆息しています。 

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2011/04/pdf/002-005.pdf

『米国の大学で博士号を取得した人も多い日本の経済学界もそんな影響を如実に受けている。二重構造論という言葉が日本の労働研究から消えるのは,もはや時間の問題なのかもしれない』
 会議が開催された1990年代のみならず、日本製造業の超長期的かつ不可逆的な衰退が明らかになりつつあった2011年においてさえなお、二重構造を否定する論調が主流を占めていたことが見てとれます。
 しかし、エズラ・ヴォーゲルの”ジャパン・アズ・ナンバーワン(Japan as Number One: Lesson for America)”が上梓された1979年、賃金の企業規模間格差は再び拡大し始めていました。橋本健二(早稲田大学)の”「格差」の戦後史”(2009年10月、河出書房新社)は次のように述べています。
『賃金の企業規模間格差は1960年代前半に急速に縮小したが、その後も断続的に縮小が続き、500人以上を100とした30〜90人規模の賃金は、78年には82.3とピークに達した。ところがその後、反転して急速に低下を始め、85年には74.1、90年には70.2まで下がり、90年代以降も低下が続いている。70年代終わりから、経済格差に関する指標のいくつかは拡大傾向を示し始めるのだが、なかでも早い時期からはっきりした格差拡大傾向を示したのが、この規模間格差だった』
 橋本の指摘は、第2次オイルショックプラザ合意後の円高を克服した日本的経営の原動力が何だったかを、如実に物語っています。低賃金です。ピラミッド型に系列化された下請中小企業や零細企業で働く労働者の低賃金が、国際競争力の源だったのです。
 ピラミッドの頂点に君臨するトヨタなどの発注企業や系列の上位に位置する企業で働く労働者も、幸せだったとは言えません。相対的に高い給与や企業内福祉を享受する代償として、過労死に象徴される先進諸国のなかで最も長い労働時間やサービス残業、有給休暇消化率の異様な低さ、あるいはTQC活動への「自主参加」など、欧米の労使が追求したQWL (Quality of Working Life)の対極にある生き方、つまり生活の全てを会社に捧げる「会社人間」になることを強いられていたからです。
 そして転機がやってきます。たまたまバブル崩壊の時期と重なったことから誤解されがちですが、日本経済の長期的衰退の契機となったのは、1985年のプラザ合意、そして89年に起きたベルリンの壁の崩壊です。
 日本型生産システムを支えていたピラミッド型に構築された系列(=多層的な下請構造)には、「国内完結」という特徴がありました。しかし、プラザ合意がもたらした円高に対応するため、日本の製造業は海外直接投資を急速に拡大していきます。また、ベルリンの壁の崩壊により、社会主義諸国にプールされていた低賃金の労働力が市場に参入してくると、この傾向はさらに加速していきました。中小・零細企業の労動者や非正規雇用労働者などの低賃金、あるいは大企業・中堅企業で働く正規労働者たちの長時間労働に依拠していた日本型経営の優位性は失われたのです。おそらくは半永久的に。
 バブル崩壊以降の日本経済の低迷が、Lost Decade、Lost Score、あるいはLost Decadesと呼ばれることがありますが、他の先進諸国に先駆けて人口オーナス期に突入した日本が低迷から脱するためには、かなりの時間を要すると考えています。一連の投稿に ”Lost Century”というタイトルを付けた所以でもあります。
 また、いずれ詳しく触れますが、地方の衰退という問題についても、この視点からアプローチする必要があります。というのも地方経済の担い手は中小企業だったからです。”地域の雇用と産業を支える中小企業の実像”(2015年6月、日本公庫総研レポートNo.2015-1)によれば、3大都市圏における中小企業従業者数が59.2%であるのに対し、地方圏のそれは85.2%にのぼります。日本型生産システムに組み込まれていた地方の中小企業は淘汰される運命にあり、地方の危機はさらに深まっていくものと想定されます。「交流人口の拡大による地域経済の活性化」といった官庁プランナーたちが提唱する弥縫策で対応できるレベルの問題ではないのだ、という基本認識からスタートする必要があると考えています。

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アップした写真は2011年8月、喜多方市の中心部にあるマーケット通りで撮ったものです。生活保護ケースワーカーをしていた頃、担当していた山都町(当時は耶麻郡山都町、現在は喜多方市山都町)への行き帰りに飽きるほど立ち寄ったにもかかわらず、いつも役所の車(AMラジオすらついていないオンボロのライトバンでした)を運転していたので、幹線道路沿いの情景しか記憶にありませんでしたが、ゆっくり歩いてみると、そのまま"青い山脈"のロケができそうな家並みをいたるところで目にします。いい街です。