善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

王たちの憂鬱な夏

 かつてPIMCOを率いて債券王の称号をほしいままにしたビル・グロースは昨年9月、『米国債はごみ』だと指摘しました。『米連邦準備理事会(FRB)の資産購入の減額(テーパリング)が2022年半ばにかけて進み、10年債利回りは今後1年で2%以上に上昇(価格は下落)する』と予言しました。そしてその予言は半年もたたないうちに成就してしまいました(5月12日現在、2.9%台)。

 また、グロースから債券王の称号を継承した米投資会社ダブルライン・キャピタルのジェフリー・ガンドラックCEOは昨年12月上旬、FRBが資産購入のテーパリングと利上げに向かえば、パンデミックの下で膨張した債務の借入コストの上昇が成長の逆風になると主張し、リスク資産の先行きをを占う「炭鉱のカナリア」、ハイイールド債から目を離さないよう警告を発しました。具体的には、米国2年国債利回りが1%を上回るようなことがあれば、問題が生じると指摘しました。

 米国の金利が上昇すれば、他の資産クラスに先駆けてジャンク債が苦境に陥るというわけですが、悲しいことに米国2年国債利回りは今年1月17日には1.0%ラインを突破し、5月12日現在、2.6%台に達しています。炭鉱のカナリアは死んでしまったのです。

 ガンドラックがいうように、苦境に陥るのは債券市場だけではなく、あらゆるリスク資産と考えるべきでしょう。

 小林俊と中山興(ともに日本銀行)は”リスク資産間のクロス・アセット相関の高まり” (2013年4月、日銀レビュー)において、2008年の世界金融危機以降、マクロ的な不確実性が高まる局面において、株式、社債コモディティという代表的なリスク資産間の相関度が高まっていることを明らかにしました。つまり、債券市場が崩壊すれば、株式市場や商品市場も道連れになるというわけです。

https://www.boj.or.jp/research/wps_rev/rev_2013/data/rev13j03.pdf

 クロス・アセット相関の高まりは、小林たちが指摘した2008年の世界金融危機や2011年の欧州ソブリン危機以降も、テーパータントラム(当時のバーナンキFRB議長が「雇用市場の改善が継続し、持続可能と確信すれば、向こう数回の会合で資産買入れ縮小が可能に」と発言したことで、世界的に株価が急落、為替相場も不安定化した出来事)が起こった2013年やFRB金利引き上げを進めていた2018年などにも観察されています。

 相関度が高まる要因について、小林たちは次のように述べています。

リーマン・ショック後、足もとにかけては、「異例の危機時対応」として世界的に金融緩和が 強力に推し進められた結果として、中央銀行のバランスシートが大きく膨張した。これは、金融資産を中央銀行が受け入れて、市場金利の低下を促すと同時に、金利に織り込まれるべきリスク情報を中央銀行がある程度摘み取っている、換言すれば、中央銀行にリスクが移転されていることを意味する。この結果、金利に織り込まれるべき個別のリスク要因を反映した固有ファクターの影響度が小さくなり、相対的にマクロファクターの影響度が高まることを通じて、リスク資産間の相関が一段と押し上げられている可能性が考えられる

 「マクロファクターの影響度が高まること」が、政策金利の引き上げや中央銀行のバランスシート縮小を意味することは言うまでもありません。消費者物価指数の高止まりを背景にFRBが急速に引き締めを進めれば、あらゆる資産クラスが大きく動揺することになるでしょう。イーグル・アセット・マネジメントの債券ディレクター、ジェームズ・キャンプの言葉が、これから何が起こるかを暗示しています。

『今は資本市場で10年に一度の局面だ。クロスアセットのボラティリティーは信じ難いほど大きく、隠れる場所はどこにもない』

 すでに株式市場は大きな調整局面に突入していますが、債券市場においても動揺が広がっています。

 3月16日と4月22日のBloombergは、ジャンク債だけでなく、金利が上昇する局面でもプロテクションを提供する商品として人気があった変動金利レバレッジドローンやCLOからも逃避が始まっていることを報じました。遠くない将来、金融商品化が進んだコモディティの市場も激震に見舞われるでしょう。

 

"レバレッジドローンの大人気、完全に終わった-欧州の戦争で状況一変"

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-03-16/R8TF90DWRGG001?srnd=cojp-v2

 

"ウォール街レバレッジドローン今は好まず-金利上昇で慎重姿勢に"

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-04-22/RAPTW1T1UM1201?srnd=cojp-v2

 

 さて、ここで素朴な疑問が浮かんできます。暗号資産や不動産など他のリスク資産は大丈夫なのでしょうか。

 暗号資産については、Business Insider Japanが5月10日、オマハの賢人ウォーレン・バフェットの言葉を伝えています。

もしあなたが世界中のすべてのビットコインを所有していて、それらを25ドルで譲ると言っても、私はそれを受け取らない。なぜなら、それで何ができるのか。私は結局、あなたに売り戻さなければならないだろう。何の役にも立たないのだから

https://www.businessinsider.jp/post-253849


 元イングランド銀行総裁のマーヴィン・キングは、”錬金術の終わり”(2017年5月25日、日本経済新聞出版社)において、貨幣が備えるべき2つの基準について次のように語っていますが、暗号資産がいずれの基準も満たしていない現状では、バフェットの言葉を老いぼれの戯言として片付けるわけにはいかないかもしれません。

『子どもたちは・・・お金がどんな形をとろうと、次の2つの基準を満たさなければならないことを学ぶ。第一に、貨幣は、誰かから「モノ」を買いたいと思ったときに、誰にでも受け取ってもらえなければいけない(一般受容性の基準)。そして第二に、将来の取引におけるその価値を妥当に予測できなければいけない(安定性の基準)』

 不動産市場については語るまでもありません。低金利と金余りを背景にバブルは膨らみきっており、金融政策の巻き戻しにより、破裂するのは時間の問題といえるでしょう。

 かつて日本は、バブル崩壊にともなって商業地の地価が87%下落するなど、1989年当時のGDP3年分の国富を失いました。しかし、日本を除く世界経済が健全だったことが幸いして、世界恐慌時のような惨禍を回避することができました。2008年の世界金融危機では中国が牽引車となり、世界経済を回復の軌道に引き戻してくれました。では今回、世界経済を破局の淵から引き上げてくれる救世主はどこにいるのか。これといった目星もつかないまま、夏がやってきます。

Hotel California を追われる日銀

 2010年3月3日、ダラス連邦準備銀行の総裁だったRichard W. Fisherは、FRBの超緩和的な金融政策について、イーグルスのヒット曲”Hotel California”の歌詞 - You can check out any time you want. But you can never leave. - を引用して、バランスシートの膨張が出口戦略を困難化させると警告を発しました。

https://jp.reuters.com/article/us-usa-fed-fisher/feds-fisher-worried-about-hotel-california-monetary-policy-idUSBRE8BD0IJ20121214

 この警告はFRBだけでなく、3Lows(低成長、低インフレ、低金利)の常態化に超緩和的な金融政策により対応している他の中央銀行にも当てはまります。もちろん我らが日銀も例外ではありません。

 短期金融市場のバイブルといわれる”東京マネーマーケット”(最新版は2019年11月22日、有斐閣)の編集代表である加藤出(東短リサーチ代表取締役・チーフエコノミスト)は、”日銀、「出口」なし!”(2014年7月30日、朝日新聞出版)を”Hotel California”の歌詞の紹介からはじめ、あとで詳しく紹介するように、異次元緩和の出口に絶望的ともいえる困難が待ち構えていることを指摘しています。

 また、長く量的緩和政策に批判的な立場をとってきたリチャード・クー(野村総合研究所)は、2014年12月5日の講演”バランスシート不況からの脱却と量的緩和の罠”において次のようなエピソードを披露した上で、出口戦略のない量的緩和政策を厳しく批判しました。

http://www.camri.or.jp/files/libs/428/201703271641472782.pdf

『2013年、ワシントンでFRBの高官に会う機会があり、ある質問をしてみました。量的緩和をやるべきだという学術論文は数多くみたが、どうしたら量的緩和を解除できるのか書かれた論文を私は1本も見たことがない。あなたはどうかと。その人から返ってきた答えは「私も1本も見たことがない」でした。つまり、FRBも手探り状態、マーケットも手探り状態、学界もまったくの手探り状態なのです』

 日銀は2016年1月、マイナス金利政策を導入しましたが、政策金利をマイナスにしたことにより長期金利が低下してイールドカーブがフラット化たため、金融機関の収益悪化、年金等の運用利回りの低下、家計マインドの悪化といった副作用が顕在化したのに加え、それまでのペースで大量の国債を買い続けた場合、市場から国債が払底してしまい、物理的に買うことが難しくなってしまうという事情もあって、同年9月、イールドカーブ・コントロール(YCC、正式には「長短金利操作付き量的・質的緩和」)を導入しました。中央銀行の金融政策は短期金利の操作を通じて行うのが大原則でしたので、長期金利もコントロールしようとするこの試みは極めて異例なものであり、結果的に日本の長期金利は極めて低い水準に、人為的に固定されることになりました。

 なお、当時は先進国・新興国ともに成長率の低下、インフレ率の低下などに悩まされ、いわゆる経済の「日本化(Japanization)」現象への懸念が高まっていましたが、他の中央銀行は「長期金利市場メカニズムに委ねる」という大原則を堅持し、長期金利に手を出したのは日銀だけでした。

 2016年5月まで日銀理事だった門間一夫(みずほリサーチ&テクノロジーズ)は、イールドカーブ・コントロール導入5周年に当たって寄稿したコラム”2%目標は終わった話だが、異次元緩和はニューノーマルへ”(2021年10月5日、ロイター)において、次のように述べています。

https://jp.reuters.com/article/column-monma-kazuo-idJPKBN2GV0GT


『今日に至るまで、イールドカーブ・コントロールは「効果と副作用のバランスに配慮して金融緩和の持続性を高める」というその目的を、ほぼ完ぺきに果たしてきた。 ・・・8年半かけて進化を続けた今の異次元緩和は、副作用という点でも死角がほぼない完成形に近づいた。2%物価目標という主戦場で勝てる当てがない以上、それでも戦うなら異次元緩和はずっと続けなければならないが、「ずっと続けられるようにする」という局地戦では、日銀がほぼ完全勝利を収めている。今の異次元緩和には、もはやパワーも驚きもないが、代わりに「永遠の命」がある。日本の金融政策はひとつの均衡点に達した。いずれ異次元とも呼ばれなくなり、現状がニューノーマルと化していくだろう』

 何のことはない、YCCはいつまでもHotel Californiaに安住し続けるためのもの、換言すれば、半永久的に金融緩和を続けるためのものだと言うのです。

 門間は財政破綻やインフレ、資産バブル等のリスクに関しても書いています。

『日銀の国債買い入れは財政ファイナンスではないか、という批判も時々聞かれる。しかし、インフレのリスクがほとんどない日本で、今の財政赤字が過大だとは考えにくいし、まして金融政策のせいで国債が過剰に発行されているという因果関係を示す証拠はどこにもない。家計にも企業にも金融機関にも潤沢にキャッシュが眠る日本では、日銀などに頼らずとも必要な国債は発行できる。バブルなど金融面の不均衡も蓄積されている気配はない』

 このコラムが書かれたのは昨年の10月上旬。つまり門間は、ラグラム・ラジャンやローレンス・サマーズなどが迫りくるインフレについて繰り返し警告を発し、国内においてもサプライチェーンの混乱や円安等によるコストプッシュ・インフレ、あるいはスタグフレーションについての議論が高まりを見せていたにもかかわらず、低インフレ・低金利は延々と続く - 日銀の公式見解と同様、賃金の持続的な上昇を伴わないインフレは一時的なもので、海外のインフレ要因が剥落すれば消費者物価指数は再び下落する - ので、いつまでもHotel Californiaに滞在し続けられると考えていたわけです。

 しかし彼の希望的観測は裏切られることになりそうです。集金人がやってきたのです。(2021年2月7日の記事”集金人の到来”参照)

 4月28日、日銀は金融政策決定会合において現行の金融緩和路線を堅持するとともに、長期国債の利回りが0.25%を超えないよう無制限で買い取る「連続指し値オペ」を原則として毎営業日おこなうという新たな方針を打ち出しました。YCCの放棄、ないしYCCの利回り幅の拡大(現在は0±0.25%)を求める市場との全面対決です。市場はドル買いで応戦し、ドル円レートは131円台に跳ね上がりました。

 小幡績(財務省慶應義塾大学)はこの決定を、”日銀、永久指値オペで自滅 日本敗戦”という刺激的なタイトルの記事において、激しく批判しています

彼らは、マーケットの戦いをわかっていないのだろう。これでは、ヘッジファンド、トレーダーの思うつぼだ。

 ・・・トレーダーは、国債先物で売りまくる。同時に円も売り浴びせる。国債市場では、海外トレーダーはマーケットを支配できないが、為替市場では支配できる。

 ・・・国債市場で指値オペで日銀がトレーダーを撃退したように見えても、それは彼らを確実に儲けさせるだけだ。なぜなら、彼らは円を売り、円は暴落する。国債先物で売っている。現物国債市場は日銀が支配し、0.25%で買う。ところが、国債先物市場では0.25%を超えて利回りが上昇する。そうすると割安だから、国債先物を0.26%で国内トレーダー、国内投資家が買って、現物を日銀に売る。裁定取引で確実に儲かる。

 海外トレーダーは、国債先物ではわずかに損をするように見えるが、実際は、円が暴落しているから、ドルベースで考えれば、国債の買戻し価格はドル建てでは安くなる。だから、ドルベースでは儲かる。永久に儲け続けられる。

 円安は絶対に止まらない。なぜなら、このトレードを続ける限り円安が進み続けるからだ。どこかで、日銀は円安を止めるためにギブアップせざるを得ない。その時、国債は暴落し、海外トレーダーの売りポジションは大儲けとなる。

 彼らは、ここでいったん力をためて、国債市場を殺してから、つまり、0.25%で日銀がくぎ付けにするから、普通の取引者は国債を売買しなくなる。市場が成立しなくなる。その状態から一気に売り浴びせれば、短期決戦で勝ちやすくなる。あるいは、今日から即時に攻め立てる。いずれにせよ、万が一、今日負けても、次には彼らが大勝ちするだろう。終わりだ

 金融政策決定会合の結果を正確に予測した加藤出(東短リサーチ)は、会合初日の4月27日に東洋経済が配信したインタビュー記事”円安加速、日本銀行は「行くも地獄退くも地獄」”において、日銀を取り巻く状況について解説しています。

https://toyokeizai.net/articles/-/58531

 まずYCCが円安を加速させているという認識を示した上で、以下のように推測します。

『現時点では政府と日銀の間で、「今般のインフレに金融引き締めでは対処せず、物価上昇の影響に脆弱な家計や企業には補助金や給付金などの財政政策で対処する」という合意があるように見受けられる』

 その背景には、黒田総裁が「円安は日本経済にとっていいことだ」と信じており、「日銀は間違った政策をやっている」という認識がないことがあり、政府にもコロナ禍への対応で国債発行が急増している現在、YCCの変更による国債利払いの増加は都合が悪い、また、多額の資金を借り入れている中小企業等への影響を考慮すると金利の上昇は避けたいという思惑があることを指摘した上で、次のように続けます。

『今の政府や日銀も、どこかで「アメリカのインフレや金融引き締めがピークアウトしてくれるのではないか」という望みの中で、判断を先送りしている。それでうまくいったケースは歴史上あまりない。どこで決断するか、だろう』

 そして最後に、このまま円安を止められなければ円からのキャピタルフライトが加速するのではないか、というインタビュアーの問いに対して、次のように回答しました。金融市場の実情に精通しているエコノミストの見解だけに、リアリティがあります。

円安を止めなければならない場合は、まずはYCCをやめて中長期金利市場メカニズムがある程度働くようにする。仮にそれでも円安が止まらないとすれば、付利(短期金利)のマイナス金利解除という順番ではないか。

 ・・・万一、YCCをやめて、日銀当座預金への付利(短期金利)をゼロ金利に戻しても円安が止まらないとすれば、状況はかなり深刻だ。円安にブレーキをかけるために市場の短期金利を上昇させようと付利を1%にすれば5.6兆円、2%なら11.2兆円の年間の利払いが日銀に発生する。そうなったら日銀は短期間で債務超過になる(日銀の純資産は2021年3月末約4.5兆円)』

『現時点では極端なたとえに感じられるかもしれないが、日銀が悪い円安を止めるために付利(短期金利)を5%くらいまで上げると、利払いは年28兆円だ。強烈な債務超過に陥り、政府は国債を大規模に発行して日銀にそれを買い支えさせながら、日銀に公的資金を注入するという、たこが自分の足を食べるようなことになるだろう

将棋でいうと「詰み」の状態だ。最悪の事態も意識し、的確な対応を始める必要があり、加えて海外のほとんどの先進国のように財政健全化の方向性を示すことも必要だ

 いま日米の金利差は日ごとに拡大しています。

 加えて、2021年3月から2022年3月までの間に、ドルの実効為替レートが6.87%上昇したのに対し、円の実効為替レートは5.59%下落しています。通貨バスケットベースでの10%の上昇が1%の金利上昇、10%の下落が金利1%の下落に相当すると仮定すれば、実質的な金利差は更に拡がっていることになります。

 キャピタルフライトが加速し円の信頼が失墜するとき、何が起こるのか。そしてHotel Californiaを追われた日銀はどこへ行くのか。

 歴史的な実験の結果がもうじき判明します。

 

二重構造論の復権

 2021年12月27日、大企業などで構成される事業者団体や経済団体を集めた会議において、岸田首相が『成長と分配の好循環を実現するため、中小企業が適切に価格転嫁を行い、適正な利益を得られるよう環境整備を行う』と異例の要請をおこなったことが報じられました。

 以下は、新しい資本主義実現担当大臣記者会見要旨からの抜粋です。

岸田内閣の目指す新しい資本主義では、株主だけではなく、多様なステークホルダーの利益を考慮する必要がありますが、従業員と並び、取引先は、重要な価値創造のパートナーです。成長と分配の好循環を実現するため、地域経済の雇用を支える中小企業が適切に価格転嫁を行い、適正な利益を得られるように、環境整備を行うことが大切です

『記者 : ・・・日本の賃金が上がらなかった理由の一つに、こういう構造があって、特に買いたたきが常態化していたという認識なのか、それとも今回そこに書かれているのは色々原材料価格が今上がっていく中で、起きうるだろうというようなことで、一次的な対応というか今後賃上げにつなげていくために、阻害するものを排除する考え方なのか、そこを教えていただければ

 山際担当大臣 : 正直申し上げて両方だと思っております。日本の経済構造、産業構造に起因する、特に製造業はですね、元請けがいて、下請け孫請け曾孫請けと、こういう構造になっていることがうまく機能してきたというのも事実なのですが、一方で、その間にですね、やはり適正な価格の転嫁というものが行われにくい、そういう産業構造になってきたということは間違えが無いわけですね

 発注企業がその優越的な地位に基づいて発注単価を不当に値切るのが当たり前という構造が蔓延しており、それが低賃金の温床になってきたことを、首相みずからが認めたという点において、この発言は画期的なものと言えます。

 2010年代に入って、低賃金が日本が長期停滞に陥った主因ではないかという主張がようやく市民権を得るようになりましたが、官庁のエコノミストや政策プランナーたちがさらに進んで、低賃金を生みだす構造的要因にも目を向け始めたことを素直に評価したいと思います。

 “ボルカー回顧録 - 健全な金融、良き政府を求めて”(2019年10月、日本経済新聞出版社)の中に、ブレトン・ウッズ体制が崩壊し変動相場制への移行が模索されていた1971年9月、ロンドンで開催されたG10の席上、米国のコナリー財務長官が『ドルは我々の通貨ですが、問題はあなたたちのものです』と言い放つ場面が出てきます。『あなたたち』が大幅な貿易黒字国であるドイツと日本だったことは、言うまでもありません。

 それから半世紀、ベルリンの壁崩壊後の難局を乗り越えたドイツ経済は、様々な問題を抱えながらも成長を続けているのに対し、同時期にバブル崩壊という難局に遭遇したわれわれの社会は、今なお苦境に喘いでいます。

 この落差をもたらした要因はなんだったのでしょうか? 

 日本のLost Decadesをめぐっては、小泉構造改革路線の理論的バックボーンとなった 林文夫(コロンビア大学東京大学等)とE.Prescott(シカゴ大学アリゾナ州立大学等)の実物的景気循環(Real Business Cycle)理論に基づく研究をはじめとして、様々な議論が展開されてきましたが、そのほとんどが主流派経済学(新しい古典派やニューケインジアン、あるいはそのキメラ)の主張を鵜呑みにしたエピゴーネンたちによるものであり、あたかも欧米のイノベーションの成果を輸入し、細部を改善しつつ模倣し、高い生産性と国際競争力を誇った日本型生産システムが新しい時代に対応できなかったように、エピゴーネンたちもまた、日本社会の衰退を食い止めるための有益な指針をまったくと言っていいほど示すことができなかったばかりか、ワシントンコンセンサスに象徴される新自由主義的な「構造改革」路線を後押しすることによって、あるいは破局をもたらす可能性の高い「実験」へと為政者を駆り立てることによって、日本社会の衰退を加速させたのでした。

  “エコノミクス・ルール - 憂鬱な科学の功罪”(2018年3月10日、白水社)や”貿易戦争の政治経済学 - 資本主義を再構築する”(2019年3月28日)などの著書で知られるダニ・ロドリック(ハーバード大学等)は、日本経済新聞が2021年8月26日に配信したインタビュー記事 ”経済学に地理的多様性を” において、有力な経済誌の著者の9割近くが米国と欧州先進国に拠点を置いており、東アジア拠点の経済学者が、有力誌に寄稿する論文の比率は、全体の5%足らずであることを指摘した上で、次のように述べています。

地域の偏りにはわけがある。(経済学は)英国で生まれ欧州大陸でも発展したが、20世紀の前半、経済大国になった米国に舞台が移る。政治的迫害や戦争を逃れ、多くの研究者が移ったことも大きい。米国の経済や社会を分析して得られた理論が、やがて主流となり、ノーベル経済学賞の受賞者を輩出する。

 こうした米国流が、多くの学者の考え方の土台にあるといわれる。しかし、米国発の理論では、日本の長期低迷の原因や脱デフレへの政策の効果などは、うまく説明できないとの指摘もある。いまの日本経済を分析し、いままでの発想の見直しを迫る発見をすれば、学問の多様さを広げることにもつながるはずだ。国内の経済学者らの踏んばりに期待したい

 昨年5月に投稿した”大西洋しか知らない田舎者”でも書いたように 、『西欧・アメリカvs.東欧・ソ連という冷戦構造の枠組みでしかインドシナ半島を捉えようとしなかったベスト&ブライテストたちと同様、バブル崩壊以降、日本の金融政策に大きな影響力を与えつづけてきたクルーグマンをはじめとする主流派経済学の大立者たちもまた「大西洋しか知らない田舎者」であり、アベノミクスを推し進めてきたリフレ派の面々は、その田舎者の口車にのせられただけの「愚者」に過ぎないのではないか』と考えていたこともあって、重鎮ロドリックのインタビュー記事が新たな議論を巻き起こしてくれるのではと期待していたので、12月27日の首相発言はとりわけ意義深いと感じた次第です。というのも、少なくとも日本では今後、玄田有史(東京大学)が懸念した「二重構造というタブー」がなくなることを意味するからです

 * “二重構造論 - 「再考」”(2011年4月、日本労働研究雑誌 No.609)を参照

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2011/04/pdf/002-005.pdf?fbclid=IwAR2OkeFd98rESs3rN8NKC3J80ee9_TE00ydbNaxiuQWVDFWwal7PqjDl85c

 バブル崩壊とオーバーラップしていたため閑却されがちですが、中国が世界の工場へと成長したことやソビエト圏の崩壊などにともなって、何億人もの労働者が資本主義市場に参入してきたことにより、二重構造に依存してきた日本型生産システムの解体が進行しており、それがLost Decadesの主因なのではないか - 次回からは、そういった視点から論考を進めたいと思っています。

 

 

Bob Dylan’s Dream

 誕生日にもらった友人からのメッセージで、大学に入学してから半世紀たったことに気づきました。

 18歳からの5年間を大学で過ごしましたが、なかでも教養学部キャンパスの一角に建つ学生寮での2年間はかけがえのないもので、いまなお寄木張りの床にひかれていた油の匂いや、天井裏に棲む鳩たちの身じろぐ気配、スチームパイプの温もりといった感覚がリアルに甦えってくる瞬間があります。

 そんなときに聴くのがこの曲です。

www.youtube.com

 とくに最後のパラグラフは、年ごとに切なく響くようになってきました。今夜は愛猫を相手に安物のウヰスキーをやろうと思います。

  I wish, I wish, I wish in vain

  That we could sit simply in that room again

  Ten thousand dollars at the drop of a hat

  And I’d give it all gladly if our lives could be like that

f:id:Rambler0323:20220319161936j:plain



 

福祉は住宅から始まる

 この数ヶ月、1990年代以降の日本の長期的な衰退に関する論文や書籍、コラムなどを読み漁っていたのですが、その過程で住宅に関わる面白い論考をいくつか見つけました。

 

 一つ目は、大阪大学社会経済研究所教授だったチャールズ・ユウジ・ホリオカ(大阪大学スタンフォード大学神戸大学など)の”日本の「失われた10年」の原因 : 家計消費の役割”(2006年6月、大阪大学社会経済研究所)というディスカッション・ペーパーです。

https://www.iser.osaka-u.ac.jp/library/dp/2006/DP0667.pdf

 この小論においてホリオカは、

 

経済成長の足かせになったのは投資 (民間および政府の固定投資および在庫品投資)であり、1991-2003 年の間、投資関連の3つの構成要因はGDPより低い成長率を示しただけではなく、負の成長を示した政府固定投資の成長率は -0.24%であり、民間固定投資の成長率は-0.59%であり、在庫品投資の成長率は(最後の年の値が負だったため)大きく負だったが、計算できない。

民間固定投資の内訳をみてみると、民間の住宅投資の減少 (-2.48%) は設備投資 (-0.14%) のそれよりも遥かに顕著であり、民間の住宅投資の停滞が日本経済の長期低迷の主因 だったかのように見える

・・・政府固定投資,在庫品投資,民間固定投資の実質GDP成長への寄与度はすべて負であり、それぞれ -1.26%, 、-4.35% および -11.49% であり、民間固定投資の寄与度(の絶対値)は特に大きかった。民間固定投資の内訳を見てみると、民間住宅投資が民間固定投資の負の寄与度の 81%を占めており、この結果も民間住宅投資が日本経済の長期低迷の主因であることを示唆する

 

 と述べています。

 「失われた10年」の要因をめぐっては、Hayashi & Prescott(TFP上昇率の低下)やリチャード・クー(バランスシート不況)をはじめとする様々な論考がありますので、近いうちに取り上げたいと思っているのですが、近い将来、住宅問題が政策論争の中心的なテーマになるのではないかと考えていたこともあって、民間住宅投資の低迷が主因であるというホリオカの研究に興味を惹かれた次第です。

 また、この一節を読んで、なぜ小泉政権三位一体改革により公営・公社住宅に市場原理を導入し、実質的に公営・公社住宅を建設できないようにしたのか、その背景が理解できたように感じました。つまり、ディベロッパーをはじめとする住宅関連産業を支援することにより民間固定投資を回復させ、ひいては長期低迷からの脱却を企図したのではないかと思えるのです。その結果、”居住の貧困”(本間義人、2009年11月、岩波新書)の表現を借りれば、住宅政策は『社会政策から経済政策へと変容』したのでした。そしてこの政策転換は、のちのち大きな問題を招来することになるだろうと考えています。

 

 二つ目は、日本経済新聞が2021年11月28日に配信したエミン・ユルマズ(野村證券、複眼経済塾)のコラム”世界経済を揺るがすインフレと中国リスク- エミン・ユルマズの未来観測”です。

 このなかでユルマズは、未曾有の金融緩和が住宅と自動車という代表的な2つの耐久消費財にインフレをもたらしていることを指摘しています。

 

 『日本経済は長期にわたりデフレが続き、物価は上がらないという見方が投資や消費の先送りにつながってきました。日銀が掲げるインフレ目標2%は達成が難しいとみられています。しかし、そもそも本当に日本はデフレの状況下にあるのでしょうか。

 政府統計によると、軽自動車の平均価格は過去10年で5割近く上昇。東京カンテイ(東京・品川)がまとめた中古マンション平均希望売り出し価格(70㎡換算)は、東京都心6区で8月まで過去最高値を更新しました。人生の2大消費アイテムである住宅と自動車価格が上昇している以上、一部でインフレが起きていると言えます。

 一方、厚生労働省の賃金構造基本統計調査によると、昨年の一般労働者の平均月例賃金は、2011年比でほぼ横ばいにとどまっています。賃金が変わらない以上、価格上昇が続く住宅と自動車を購入するには、他の消費を削るしか方法はありません。すると国内消費は伸びず、他の品目でのデフレは免れません。インフレが起きていないのではなく、インフレが間違った方向、「資産」において起きているのです。

 金融緩和に伴うカネ余りはモノのインフレを引き起こすことなく、資産インフレを作り出し、格差を拡大させただけでした。その意味で私は、世界的な金融緩和政策は見直されるべきだと考えています』

 

 つまり、デフレ脱却を旗印に進められてきた金融緩和政策が資産インフレを惹起し、かえってデフレを加速させているのではないかという指摘です。

 ユルマズのこの指摘は、われわれの実感にも合致しています。かつては住宅ローンを組んだ直後こそ返済負担が重くのしかかるものの、定期的に訪れる調整インフレが名目賃金を押し上げてくれたため、ローン返済の実質的な負担感は徐々に軽くなっていったものでした。しかし今はローン負担がいつまでも重くのしかかり続けており、次のライフステージ(子供の教育費や老後資金など)に備えるために、住宅・自動車以外のモノやサービスへの支出を倹約しなければならない暮らしが延々と続いているというわけです。

 加谷珪一(経済評論家)も2020年10月21日にNewsweekが配信したコラム”返済が一生終わらない - 日本を押しつぶす住宅ローン問題の元凶は?“において、ユルマズと同様の危機感を表明しています。

https://www.newsweekjapan.jp/kaya/2020/10/post-117.php

日本経済新聞社住宅金融支援機構のデータを使って行った調査によると、2020年度における住宅ローン利用者が完済を予定している平均年齢は73歳だった。20年間で完済年齢は5歳上昇したが、直接的な理由は住宅取得年齢が上がったことと、ローン期間が延びたことの2つである。だが、両者の背景となっているのがマンション価格の高騰であることは明らかだ』

『本来なら、都市部において低価格で良質な賃貸住宅を提供できるよう政策を転換すべきだったが、新築マンションの建設需要という目先の利益を優先し、こうした政策は後回しにされた。上限年齢を引き上げた結果、老後破産が増えれば、最終的にそのツケを払うのは国民であり、追加負担が発生するのは同じである』

 

 なお、加谷がこのコラムを執筆した2020年11月の時点では、マンションの建設物価建築費指数(2011年平均=100)は125程度で、木造住宅建築費指数118程度を大幅に上回っていましたが、そのご木造住宅の建築費指数が急騰したため、2021年11月時点での指数は共に130強となっています。

 

 三番目に注目したのは、2022年1月9日に幻冬社ゴールドラインが配信した坂本貴志(厚生労働省内閣府、三菱総研、リクルートワークス研究所)のコラム”生活費「月15万円」の単身高齢者 - 「生活保護受給者」増加で日本社会に暗雲が立ち込める”です。

坂本は単身高齢者の増加が、近い将来に大きな社会問題を惹き起こすと警告しています。2021年8月1日に投稿した”労働法のない世界”でも述べたように、正規雇用者数が増加を始めた1990年頃から、50歳時の未婚割合は増加の一途をたどっており、2035年には男性で29.0%、女性でも19.2%になるものと推計されています。

          [男性]    [女性]
     1990年    5.6%      4.3%
     1995年    9.0%                  5.1%
     2000年          12.6%                  5.8%
     2005年          16.0%                  7.3%
     2010年           20.1%                10.6%
     2015年          23.4%                 14.1%
     2020年          26.6%                17.8%
     2025年          27.4%                 18.9%
     2030年          27.6%                 18.8%
     2035年          29.0%                 19.2%

 

 坂本は、非正規雇用は低年金をもたらし、低年金は生活保護に直結すると指摘し、近い将来これが更なる財政悪化を惹起することになるとして、以下のように警告しています。

 

未婚非正規の将来はどうなるのだろうか。生涯未婚時代を生きた人が歳をとれば、その人たちは単身の高齢者になる。近年急速に進んだ未婚化は、近い将来に単身高齢世帯の急増という帰結をもたらす。厚生年金保険の受給額は在職時の収入に応じて決まる。このため、働き盛りの頃を低賃金の非正規雇用として過ごしてしまえば、年老いた時に十分な年金をもらうことはできない。そして、結婚をしていない彼らには頼るべき配偶者も子どもも存在しない。そうなると、彼らの老後に待ち受ける現実は、体力の続く限り働き続けなければならないという未来しかない。多くの人は高齢になっても働き続け、なんとか生計をやりくりすることになる

 総務省「家計調査」の2018年の集計によれば、単身高齢世帯の支出額は月15万6894円とそう多くはない。厚生年金保険の受取額が月10万円だとしても、細々と仕事をしていけばなんとか食いつないでいくことはできる。・・・しかし、すべての人が永遠に健康に働くことなどできない。彼らが働けなくなったとき、頼るべき人もおらず年金も不十分となれば、最終的には生活保護で生計を維持せざるを得なくなるだろう

将来の日本においては、年金財政や医療保険財政の悪化とともに、生活保護が国家財政の更なる悪化を引き起こすことになるはずだ。すでにその兆候はみられている。生活保護を受給している人の数は2018年に206万9000人となっており、長期的に増加傾向にあるのだ([図表]参照)。生活保護受給者数は若者や中堅の間でも増加傾向にあるが、その最も大きな要因となっているのが高齢者の増加である

 

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 ただ坂本は、官庁エコノミスト出身らしからぬ見落としをしています。東京23区における75歳単身者の最低生活費は、125,600円(冬期加算を除く)ですが、この金額には住宅扶助費53,700円が含まれており、生活扶助費は71,900円に過ぎません。もし、単身の高齢者が家賃負担の少ない都営住宅や区営住宅に入居することができるなら、月額10万円の年金収入だけでも生活保護を受給せずにやっていけるのです。

 3年ほど前、国土交通省住宅局安心居住推進課の課長補佐から、北欧では「福祉は住宅から始まる」と言われているという話を聞きました。いま求められているのは小手先の居住支援策ではなく、三位一体改革により歪められた住宅政策をラディカルに見直し、国民の共有資産として、公営住宅の建設を推し進めることではないかと考えています。

 

When the music stops

 世界金融危機直前の2007年7月、当時、世界最大の銀行だったシティグループのCEO チャールズ・プリンスは取材に対し、When the music stops, in terms of liquidity, things will be complicated. But as long as the music is playing, you’ve got to get up and dance. We’re still dancing.”と語り、金融史に不名誉な足跡をしるすことになりました。

 2003年から13年までイングランド銀行(英国の中央銀行)の総裁を務めたマーヴィン・キングは、”錬金術の終わり - 貨幣、銀行、世界経済の未来”(2017年5月25日、日本経済新聞出版社)において、プリンスの言葉を引用しながら、当時、金融機関が陥っていたジレンマについて論じています。

 

『銀行もまた、囚人のジレンマに直面した。もしも危機の前に、リスクの高い貸し付けから手を引き、複雑なデリバティブ商品を買うのをやめ、レバレッジを引き下げていたら、短期的には収益で競争相手に負けていただろう。新しい戦略が正しいことが明らかになるころには、CEOはとっくに職を追われていただろうし、他のスタッフも、リスクを選好してボーナスをもっと払ってくれる銀行にさっさと移っていただろう。たとえリスクを理解していても、群衆に従うほうが安全だった。このジレンマを言い表しているいちばん有名な言葉は・・・チャック・プリンスCEOの・・・「音楽が流れている限り、立ち上がって踊り続けなければならない。我々はまだ踊っているのだ」。2007年11月に音楽がようやく鳴りやむまで、プリンスはおどりつづけ、そこで仕事を失った』(注 : ただし、1,250万ドルの退職金は抜け目なくものにしました)

 

 世界金融危機の引き金となったサブプライム・ローン問題の発端は、2006年から2007年にかけての金利上昇でした。金利の上昇は住宅をはじめとする資産価格の下落を意味します。というのも「資産価格」とは、不動産であれ株式であれ、将来にわたって得られるリターンの現在価値であり、将来価値を金利で割り引くことにより算出されるからです。つまり金利が下がれば資産価格は上昇し、金利が上がれば資産価格は下落するという理屈です。

 世界金融危機以降の緩和的な金融政策により、資産価格は世界的な規模で上昇を続けてきましたが、緩和的な金融政策からの出口戦略を推し進める途中でコロナ禍が勃発し、戦時にも比肩すべきスケールで財政出動がなされたため、資産価格の上昇は加速しました。

 

 しかし、音楽もいつかは止むときを迎えます。

 この夏以降、ニュースサイトにおいて懐かしい名前を見かけるようになりました。かつて世界金融危機の到来を予測したふたりの人物が、再び音楽が止むときが迫っていると警告を発しているのです。

 ひとりは、2005年のジャクソンホール会議において金融危機の到来に警告を発したラグラム・ラジャンです。当時IMFのチーフエコノミストを務めていたラジャン(のちにインド中央銀行総裁)は、”金融の発展は世界をよりリスキーにしたか? “というタイトルでプレゼンテーションを行いました。著書”フォールト・ラインズ - 「大断層」が金融危機を再び招く”(2011年1月、新潮社)において、ラジャンはウォールストリート・ジャーナルの記事を借りて、その内容を紹介しています(なお、このプレゼンテーションは、当時「マエストロ」と呼ばれ崇められていたグリーンスパンFRB議長の業績を否定するものだったため、参加者たちからの総攻撃にさらされました。ラジャンはその時の様子を、『・・・ふだん礼儀正しい会議の聴衆の反応は予想を超えていた。飢えかけたライオンの集いに迷い込んだ初期キリスト教徒のような心地がした、というのは言い過ぎだろうか』と書いています)。

 

『金融セクターを動かす誘因は、恐ろしいまでにゆがめられていた。金融関係者は利益を出したときにはたんまりと褒美をもらい、損失を出したときにはほとんど罰を受けなかった、とラジャン氏は述べている。それにより金融機関は、大きな儲けにつながる可能性のある複雑な商品への投資にいそしんだが、そういう商品はえてして派手な失敗をもたらす恐れがある。

 ラジャン氏は、債務不履行に対する保険であるクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)について、保険会社その他はリスクが小さいように見せかけてこの商品を売って大きなリターンを得ていたが、実際に債務不履行が起きた場合、被害はきわめて大きくなる可能性があった、と指摘している。

 ラジャン氏はまた、銀行は自らの帳簿から生み出した証券化された債券の一部を保有しているので、その証券に問題が起きた場合には、金融システムそのものが危険にさらされると論じている。銀行同士の信任が失われ、「銀行間の市場がフリーズし、それが全面的な金融危機を招きかねない」と。

 ほぼそのとおりのことが、2年後に起きた』

 

 かつてラジャンは世界金融危機後のテーパリングが早すぎると批判しましたが、この夏以降、遅すぎると警告を発するようになりました。例えば日本経済新聞、9月1日と9月17日にラジャン氏の警告を伝える2つの記事を配信しました。

 どちらの記事もインフレが到来する可能性が強まっていることを警告する内容ですが、二つ目の記事では、最低賃金の引き上げなど労働者保護の強化および大規模な財政出動が、賃金と物価に持続的な上昇圧力となると、その理由にも触れています。米国の限界消費性向(c)は0.6ないし0.7といわれており(日本は0.1未満)、乗数効果(1/1-c)も2.5ないし3.33と極めて大きいことから、説得力があります。

 インフレの可能性が高まれば、金利は上昇していきます。代表的な指標である米国10年国債の利回りは2020年7月を底に反転しており、テーパリングの進展や国際商品価格の高騰、サプライチェーンの世界的混乱などを考えあわせると、今後も上昇をつづける可能性を否定できません。

 

 もうひとりの懐かしい人物は、マイケル・ルイスのベストセラー”世紀の空売り”(2010年9月、文藝春秋)に登場する主人公の一人、アスペルガー症候群をかかえた隻眼孤高のバリュー投資家マイケル・バーリです。

 ブルームバーグは2021年8月23日、バーリが iシェアーズ米国債20年超ETF( iShares 20 Plus Year Treasury Bond ETF)のプットオプション(売る権利)280,000,000ドル(10月22日現在のレートで約317.7億円)相当を保有していることを報じました。 

 バーリは決して博奕打ちではありません。”世紀の空売り”の中に、彼の投資スタイルを象徴する次のような一節があります。地道に情報を収集・精査して投資先を決定する、バリュー投資の王道を歩んでいることが読み取れます。

 

『どのモーゲージ債にも、血の気が失せるほど退屈な130ページの目論見書が添付されていた。そこに書かれた細かい文字を読むと、それぞれが独自の小さな法人になっていることがわかる。バーリは2004年末から2005年初めにかけて、何百通もの目論見書を通読し、何十通かを精読した。年間100ドルの料金を支払えば、誰でも全部の目論見書を<10Kウイザード・コム>から入手できるのだが、それをここまでちゃんと読み込んだ人間は、本文を起草した弁護士たちを除けば、おそらくバーリただ一人だろう』

 

 バーリは何を根拠にプットしたのか ? ”世紀の空売り”の続編を期待したいところです。

 

 長くニューヨーク・タイムズの書評欄を担当した角谷美智子は2013年2月7日、アラン・ブラインダーの著書”After the Music Stopped: The Financial Crisis, the Response, and the Work Ahead”の書評に”When Dancing Ended, and Disaster Set in”というタイトルをつけました。次に音楽が止んでダンスパーティがお開きになるとき、不動産を筆頭にMBSレバレッジド・ローン、CLO、CDOなどの債券、株式、暗号通貨などの資産市場にどのような惨事が降りかかってくるのか。また、資産市場における惨事は我々の社会や暮らしをどのように揺さぶるのか。気の休まらない日々が続きそうです。

William R. White の警告

 大手不動産開発会社・中国恒大集団のデフォルトに関する記事が連日ニュースサイトを賑わせていますが、Bloombergが9月18日に配信した”アシュモアやブラックロック、中国恒大の債券を大量に保有”という記事を目にして、William R. Whiteの警告を思い出しました。

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2021-09-17/QZL7VYT0AFB701

 国際決済銀行の理事やOECD経済開発レビュー委員会の議長などを務めたWilliam R. Whiteは2016年1月、英国のThe Telegraph紙が配信したインタビュー記事”World face wave of epic debt defaults ,fears central bank veteran”(日本では2016年2月にMONEY VOICEが”OECD要人「現状は2007年より悪い」- まもなく再来する世界経済危機シナリオ”というタイトルで配信)において、次のように述べています。

すでに欧州の銀行群は1T$(1兆ドル)の不良債権を抱え込んでいるからだ。それらの不良債権は、新興国市場関連のものであり、ほとんどをロールオーバーして誤魔化しているので、顕在化していないだけなのだ』

『主要中央銀行がリーマン危機後に量的緩和とゼロ金利でばら撒いた刺激策のコストゼロのマネーがアジアやその他の新興市場に流れて、信用バブルを膨張させてしまった。その結果どうなったかと言えば、主要中央銀行は泥沼にはまり込み、新興国でも公的債務+私的債務はGDPの185%、OECD加盟国ではGDPの265%になってしまい、2007年から見て35%(ポイントで)も増えてしまっている。リーマン危機後、新興国市場は景気回復の牽引役となったが、もう今ではその新興国経済自体が問題となっている』

 そしてインタビュアーはWhiteの警告を以下のように総括しました。

リーマンショックよりも大きな雪崩が来る。量的緩和の繰り返し、そして異次元緩和で債務が膨張した結果、債務不履行の大雪崩が来る。秩序ある大雪崩などはなく、対策はもうない。頼みの綱であった牽引機関車役の中国、新興国自体が危ないからだ。となると借金棒引きしかなく、それは投資家、預金客が負担するしかない』

www.mag2.com

 1972年以来、カナダ銀行(カナダの中央銀行)を皮切りに国際決済銀行OECDなどでキャリアを積んだWhiteは、1996年のジャクソンホール会議において、当時「マエストロ」と崇められていたグリーンスパンFRB議長の緩和的な金融政策を批判し、2005年の会議で袋叩きにされたRaghuram G. Rajanほどではありませんでしたが、信者たちからの猛攻撃に遭いました。

 ドイツのThe Market紙が2020年11月16日に配信したインタビュー記事”Central Banks Keep Shooting Themselves in the Foot”は、Whiteの立脚点を分かりやすく示しています。

themarket.ch

 まずWhiteは、1990年代以降、各国の中央銀行が低インフレに対処するために超緩和的な金融政策を続けていることに対して異議を唱えます。低インフレないしデフレは、改革開放政策により中国が世界の工場へと成長したことやソビエト圏の崩壊などにより、何億人もの労働者が資本主義市場に参入してきたことによるpositive supply shocksがもたらしたbenign(良性)のものであり、中央銀行が憂慮すべきものではなかったという基本認識を示します。また、戦前には良性のデフレをテーマとする多くの著作があったとも述べています。

 ところが、亡くなったVolcker元FRB議長が繰り返し述べていたように、そもそもインフレ率を計測することは容易なことではないにもかかわらず、各国の中央銀行が小数点以下のわずかな偏差に拘泥して超緩和的な金融政策を推し進めた結果、サブプライムローン問題に端を発する世界金融危機の手痛い教訓にもかかわらず、家計や企業の負債は増大しつづけており、金融システムをより不安定なものにしていると批判しています。

 そして次のようにつづけます。

 “In 2008, the ratio of global household, corporate and government debt to GDP was 280%. Early 2020, this ratio had grown to 330%. And it’s not just the quantity of that debt, it’s the quality. Most of the new corporate debt is BBB-rated, covenant light, low quality stuff. The reason for that is the ultra easy monetary policy we have seen post-2008.”

 アンダーライン部は、covenant lightという文言から、2013年以降に急拡大を続け、次の世界金融危機の引き金になるのではないかと危惧されているレバレッジド・ローンやレバレッジド・ローンを裏付け資産として発行される証券化商品CLOを指しているものと思われます(ただし、レバレッジド・ローンの格付けはBB +以下なので、記事にある”BBB-rated”は”below BBB-rated”を意味すると解釈しました。というのも伊豆久の"レバ・ローンは第二のサブプライムか?"によれば、この5年ほどレバレッジド・ローンとは対照的に、ハイ・イールド債は減少し続けているからです)。

https://www.jsri.or.jp/publish/report/pdf/1715/1715_03.pdf?fbclid=IwAR0gxmyrnVZ-K8IsXcJ5mDr9NAzuIZGiEUbigQCQS29xIKOO4dE-ue94IT4

 日銀審議委員を務めた木内登英(野村総研)によれば、レバレッジド・ローン市場は『長引く異例の低金利の中で、投資家が過度のリスクをとった代表的な市場の一つ』であり、『レバレッジドローン市場が金融危機の引き金を引くかどうかは分からないが、経済、金融情勢が悪化する局面では、それを増幅するアクセレーターの役割を果たしてしまうのではないか』と危惧しています。また『昨年(2018年)、イエレン前FRB議長は、「景気が悪化すれば、レバレッジドローンの負債が原因で経営破綻する企業が相次ぐだろう」、「これにより景気が一段と悪化する」と強く警鐘を鳴らしている』とも述べています。

 

www.nri.com

 

 また、FSB(Financial Stability Board:金融安定理事会)も、2019年12月に公表した報告書”レバレッジドローン及びCLOに関する脆弱性”において懸念を表明しています。

https://www.jsri.or.jp/publish/topics/pdf/2001_03.pdf

 

 中国恒大集団のデフォルトをトリガーとして中国をはじめとする新興国に流れ込んでいた資金の回収に懸念が生じれば、やがて懸念は疑心暗鬼や恐怖へと転化して先進諸国にも襲いかかるでしょう。レバレッジドローン市場やCLO市場、ジャンク債市場はもとより、株式市場や債券市場においても投げ売りが始まるかもしれません。ミンスキーの瞬間(Minsky moment)の到来です。

 いうまでもなく、Wall StreetのパニックはMain Streetをも呑み込んでいきます。しかし、Whiteが述べるように、かつて牽引機関車役を果たした中国をはじめとする新興国が当てにできない状況のもとで、実体経済はどこまで収縮していくのか、見当すらつきません。

 米国のみならず中国経済にも深く組み込まれている日本経済は、未曾有の暴風雨にさらされます。しかし、日銀はもう何もできません。武器がないからです。財政が出動することになるでしょう。輪転機が焼き切れるまで国債を刷って財源を確保し、職を失った人々の群れに対処することを余儀なくされます。

 では国債の償還をどうするのか。

 Whiteは抜かりなく回答を用意してくれていました。インフレタックスです。 

https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk29-4-4.pdf

極限的な状況 においては、政府の支払い能力にも疑問が投げかけられ、問題解決のために紙幣を乱発する誘因を抑制しえなくなりうる。予期されないインフレのみがこうした効果を持つため、必要となるインフレ率の上昇は極めて大きなものになりうる』(P54参照)