善福寺日乗

ある職業的散歩者の日記

自負と無念

 兄の遺著が届きました。目次だけでも11頁、全体では650頁を超える浩瀚な一冊ですので、内容を要約してお伝えすることは手に余ります。そこで、兄の思いが滲み出た2つのパラグラフをご紹介したいと思います。

 一つは最終章である"第五章 訳読の方法と課題"の最終節"5.訳読の復権に向けて"の最後のパラグラフです。

『・・・概括的に言えば、日本人はオランダ語の訓読法に倣って英文訓読法を編み出し、それによって英語を学び、訳してきたが、一部にはたえずこれ以外の訳し方(新しいプログラム)はないかと、問を発し続けた人たちがいた。そうした探求の結果が直読直解法や順送りの訳のような形で間歇的に現れたのである。われわれはこの順送り訳という豊かな遺産を十分に活用する形で、どのような訳読が望ましいかを考えてきたが、少なくとも新しい訳読法(翻訳法)の基本的構想は提示できたと考える。今われわれは訳読の復権の緒についたのである』

 兄は高言や激情とは無縁の人でしたので、このパラグラフには胸を衝かれました。書き終えたときに兄の脳裡に去来したであろう、自分は死力を尽くしてここまで道を拓いたという自負、そして、あとは頼むぞという叫びのような思いが伝わってきます。

 

 もう一つは死去する少し前に、医師に懇願して自宅に戻り書き上げた"あとがき"です。

『・・・「訳し上げ」と「順送りの訳」を対比的に捉えるようになったのは1982年・・・のことである。・・・一連の機能文法の理論を翻訳学に応用してみようという考えが生まれてきたのである。しかし、それも2000年代を待たなければならなかった。これに関しては常に私の後ろにあった吉本隆明の美しい本"言語にとって美とは何か"が作用していたように思われる。「おまえさんなんか、まだまだだよ」とか「おまえさん、いくら何でももうそろそろじゃないのか?」と、絶えず背中を引かれ押されているような気がしたのだ。

 本書のような特殊な内容と動機をもつ本が出版されるためには、本書の意義を理解できる編集者の存在が不可欠である。法政大学出版局の郷間雅俊氏の眼がなければ本書が日の目を見ることはなかったかもしれない。

 最後に、本書の後についてであるが、常識的には本書が遺著となるのは当然であろう。しかし私はあえて、<最後から二冊目の本>(the penultimate book)であるとしておきたい』

 "あとがき"を読み終えて、病室にあった遺品の中にどうして40年以上も前に印刷された文庫版の"共同幻想論"と"言語にとって美とは何か"があったのか、なぜハルノ宵子の"隆明だもの"の差入れを頼まれたのかが、ようやく釈然とした次第です。

 最後の一文については、今なお冷静に読むことができません。

 来週末には納骨のため帰省しますが、両親も眠る墓前にこの本を供え、兄が愛した阿武隈の森を歩いてきたいと思っています。

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野辺に送る

 今日、兄を野辺に送りました。

 800頁にも及ぶゲラのチェックを終えた1月8日に、「死ぬかと思った・・・」という述懐を漏らしていたので心配していたのですが、その2日後、癌の転移による骨盤骨折のため入院するに至り、2月29日の正午過ぎに力尽きました。

 救いはこの4月にライフワークが上梓されることです。刷り上がったものを見てもらうことは叶いませんでしたが、法政大学出版局のサイトにアップされた内容紹介を読み聞かせると、満足げに頷いていました。尽力いただいた出版局の方々に感謝したいと思います。

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10年遅れの厄年 - When sorrows come, they come not single spies, but in battalions

 冬晴れに恵まれた1月8日、始発電車に揺られて2024年最初のハイキングに出かけました。京王線高尾山口駅を起点に高尾山、陣馬山和田峠、連行峰、三国山、浅間峠を越えて檜原村上川乗集落をめざす計画で、総距離25.5km、累積標高差(上り)2,337m、標準コースタイム11時間10分というロングコースですが、昨年は10月下旬に母の遭難騒ぎ19周年を記念して、芦ヶ久保駅から西武秩父線の北側に連なる稜線をたどって武蔵横手駅まで27kmほど縦走した他、暑い盛りの奥多摩で総距離25km前後のコースを歩いた経験も2回ほどあったので、さほどの不安はありませんでした。

 ところが意気揚々と歩き始めたまでは良かったものの、身体が重くピッチをあげることができません。加えて高尾山から陣馬山の間は人気コースということもあり、なかなか自分のペースでは歩かせてもらえず、いたずらに時間が過ぎていくばかりで、陣馬山に差し掛かったときには既に予定を1時間30分オーバー、6時間が経過していました。

51年ぶりの陣馬山

 日没時刻は16時44分。4時間あまりしか残っていません。そこで急きょ連行峰から万六尾根をくだり、檜原村柏木野集落をめざすことにしました。エスケープルートとはいえ総距離23.8km、累積標高差(上り)1,800m余り。焦りがなかったといえば嘘になります。

当日のルート

 陣馬山を越えると、それまでの喧騒から一転、人影は疎らになり、和田峠を過ぎると誰ひとり見かけなくなりました。道も険しくなり、獣の踏み跡ほどの小径に。かつては武蔵(檜原村)と甲斐(上野原市)を結ぶ由緒ある古道だったというのが、にわかには信じられないほどの寂びれようです。ペースは依然として上がりませんでした。勾配がきつくなってきたのに加えて、西の空から降りそそぐ陽射しを浴びて燦めく裸木や落ち葉に魅せられ、足を止めてばかりいたからです。

負傷する少し前に撮った1枚

大蔵里山付近の小径

 大蔵里山(おおぞうりやま)という小ピークで水分補給のため小休止をとり、日没に備えてヘッドランプを首に掛けました。YAMAPアプリによれば、柏木野集落への到着は日没後になる怖れがありました。焦りに駆られると碌なことはありません。いつもなら敢えてペースを落とし慎重にと自戒しながら進む局面でしたが、眼前に拡がる冬枯れ道の美しさの虜になり、いつしか遠い記憶を反芻しながら漫然と足を運んでいたようです。緩い下り坂で木の根に足をとられ、前のめりに転倒しました。とっさに岩場に両手をつき頭部は守ったと安堵した刹那でした、バックパックが後頭部に追突、その衝撃で岩場に頭突きをかます結果となりました。小休止した際にはずしたチェストストラップやウエストベルトをそのままにしていたこと、またトレーニングのため水をいつもより3Lほど余分に背負っていたことが仇となりました。

 しばらくはショックと激痛のため身動きが取れませんでしたが、5分ほどで痛みに慣れてきたので、除菌シートとテーピング用絆創膏で応急処置をほどこし、山行を再開しました。連行峰のあたりで再び痛みが募ってきたので、バッファリンを定量の2倍服用し万六尾根を急ぎました。万六の頭という小ピークを越えたあたりで日没となり、ヘッドランプの灯りを頼りにバス停のある柏木野の集落までたどり着いたという次第です。

 バッファリンのおかげもあり自宅に着く頃には痛みもほとんど収まっていたので、ハイキュアパッドという絆創膏を貼って寝たところ、翌9日朝には痛みも消えており腫れもありません。そこで仕事にでかけ、予定していた打ち合わせや面談をこなしていたのですが、午後になって患部からリンバ液が流れ出ていることに気づきました。慌てて行きつけの外科医院に駆け込んだところ、皮膚や皮下組織の損傷がひどく、縫合することになりました。

 ここまでならよくある話ですが、ここからが本題です。

 縫合処置を受けた翌10日の午後は予定が入っていなかったので、早めに帰宅したところ、夕刻から猛烈な吐き気に見舞われ、翌朝まで一睡もできずに嘔吐しつづけることになりました。少し遅れて下痢や発熱も始まり、典型的なノロウイルス感染症でした。

 13 日になってようやく柔らかめの食事が摂れるようになり、家人と「10年遅れの厄年かもしれないな」などと話し合っていたのですが、更なる厄災が待ち構えていたのでした。

 14日の朝、窓際の敷居に汚れがこびり付いているのに気づき、ウエットテッシュで拭いたところ、右手薬指の爪と皮膚の間に尖った木片が刺さり、失神しそうなほどの激痛。思わず怪猫のような叫び声をあげたのでした。日曜日ということもあり行きつけの医院は休診。ようやくネットで西荻窪にある医院を見つけ、今年2回目の局部麻酔を射たれたという次第です。

 シェイクスピアの昔から『不幸は、ひとりではやってこない。群れをなしてやってくる』といいます。今年はまだ半月が過ぎたばかり。残り11ヶ月半は、石橋を叩き壊してしまうぐらい慎重に暮らしたいと考えています。

 また、家人からは「山登りなんかに現を抜かしている報い」と罵られているので、机に向かう時間を増やし、前々から約束していた『1980年代以降、日本社会に何が起こったのか、そしてこれから何が起ころうとしているか』について、①日本の生産システム(自国資本による国内生産、ピラミッド型の生産構造、産業予備軍を持った資本主義)、②それを支えてきた国家レベルの戦略(通貨の過小評価、国民所得に占める賃金の割合の低さ、金利を自然利子率や均衡金利を下回る水準に抑える金融抑圧)、③それに対応した社会システム(家族、コミュニティ、教育)の変容プロセスとして描きたいと考えています。

69ばんめの秋

 この9月19日、"26ばんめの秋"に所帯をもった連れ合いと一緒に、尾瀬を歩いてきました。2019年の夏に長英新道をたどって燧ヶ岳に登り、熊沢田代、広沢田代を経由して御池までくだって以来ですので、4年ぶりということになります。

 鳩待峠から横田代、アヤメ平をへて尾瀬ヶ原にくだり、龍宮、見晴、東電小屋、牛首分岐、山ノ鼻を回って鳩待峠へと戻る22kmのハイキングは、累積標高差こそさほどではありませんでしたが、真夜中のドライブのあと一睡もせずにスタートという強行軍だったこともあり、もうじき古希を迎える身には堪えました。

 アップした写真は、ともに横田代からアヤメ平に向かう途中で撮ったものです。

 ここのところ低山歩きにうつつを抜かしていたこともあって放ったらかしにしていましたが、10月からは1980年代以降、日本社会に何が起こったのか、そしてこれから何が起ころうとしているかについての与太話」を披露したいと思います。

 

 

死出の山路

 前回の投稿で宣言した「1980年代以降、日本社会に何が起こったのか、そしてこれから何が起ころうとしているかについての与太話」を披露すべく、これまで書き溜めてきたノートを読み返しはじめた8月30日の夜、発熱していることに気づきました。体温を計ると37.6℃。念のため抗原検査キットでチェックしたところ陰性だったことから、さほど深刻に考えず風邪薬を服んで就寝したのですが、翌朝には40℃近くまで上昇する始末。慌てて2回目の検査をするとまたもや陰性でしたが、翌日になっても熱が引かないので、3回目の検査では鼻腔の奥深くまで綿棒を挿入して検体を採取したところ、ビンゴ!! 遠隔診療による陽性判定を経て、10日間の自宅療養を余儀なくされました。

 経過は良好で、血中酸素飽和度が95%をきり緊張させられる局面が一度だけあったものの、9月10日には無事放免となった次第です。しかし、重篤なものではありませんが咳喘息の後遺症があり、つい最近まで咳に悩まされました。

 そんな具合ですから、この秋は自宅でのんびり過ごすべきだったのでしょうが、このまま家にとじこもっていたら脚が萎えて山歩きができなくなってしまうのではないかという焦りに駆られて、放免されてわずか1週間後の9月17日、よせばいいのに北八ヶ岳へと出かけたのでした。

 病み上がりであることを考慮して、白駒池駐車場-麦草峠-茶臼山-縞枯山-雨池峠-雨池-麦草峠-白駒池駐車場という累積標高差の少ないルートを選んだにもかかわらず、早くも茶臼山の中腹あたりで足がまったくあがらなくなってしまい、頂上にたどり着く頃には意識も朦朧、天望台と呼ばれる岩場では昏倒する始末で、悲鳴をあげる連れ合いには「足が滑った」といって誤魔化しましたが、右腕の内出血だけで済んだのが不思議なほどの見事な倒れっぷりでした。深く息をすると咳の発作に見舞われるのを恐れて、無意識のうちに呼吸が浅くなってしまったのが響いたのかもしれません。

 結局、茶臼山縞枯山の鞍部から下山し、茶臼山の山裾をまくようにして麦草峠に戻りましたが、その途中で脳裏に去来したのが、高校生のときに読んだ「夏は郭公(ほととぎす)を聞く。語らふごとに、死出の山路(やまじ)を契る」という”方丈記”の一節です。

 懲りもせず、その後も毎週のようにハイキングに出かけているのですが、先週、霧ヶ峰の物見岩から蝶々深山に向かう道すがら、ふたたび「死出の山路」という言葉が脳裏をよぎりました。枯野を往くハイカーたちの影が、冥土に向かう死者の群れのように見えたからです。ただ、もう十分に齢を重ねたからでしょうか、自分自身がその中の一人であることを厭う感情はまったく湧かず、この惑星から生まれまた惑星に還ってゆくのだという得心にも似たような思いを受け容れている自分がいました。

 アップした写真は10月の初め、埼玉県西部のハイキングコースで撮ったものです。特に2枚目に写っている陽だまりは、1988年の春、5年ぶりに出現した父親に戸惑いを隠せないでいる子どもたちと昼食をとった思い出の場所です。

斥候(ものみ)よ夜はなお長きや

 教養学部の構内にあった学生寮で懶惰な留年生活を送っていた1974年のある日、ふたりの同級生と暮らしていた30畳ほどの部屋に、見知らぬ来客がありました。きけば30年ほど昔の住人とのことで、壁という壁を埋めつくす落書きを眺めまわしたあと、「さすがに残っていないか、ももの落書き」とポツリ。14才から18才までの5年間を怒れる少年たちの一員として過ごした者にとって、いいだももはアイドルも同然の存在でしたので、この呟きを耳にしたあとのわれわれが、初老の闖入者を丁重にもてなしたことは言うまでもありません。

 日本経済新聞は8月5日、”市場は偽りの夜明けか - ボルカー型ショックに備えを”という記事を配信し、6月中旬以降、日米の株式市場に楽観的な空気が戻ってきていることに対し、警告を発しました。

 この記事を読んで、リーマンショックのあった翌年の2009年3月、バーナンキFRB議長が「green shoots」(景気回復の芽)という言葉を使ったのを受けて、日銀総裁を務めていた白川方明が翌月、Japan Societyにおける講演で、「偽りの夜明け」(false dawn)というキーワードを使って、本格的な回復には長い時間がかかると警告していたことを思い出しました(”中央銀行 - セントラルバンカーの経験した39年”(2018年10月25日、東洋経済新報社)のp283~p234を参照)。

 同時に、いいだももの処女作のタイトル”斥候よ夜はなお長きや”(196611日、芳賀書店)が脳裡をよぎったのでした。というのも、米国の株価や国債(金利は下落)、日本の株価、円ドルレートは、6月中旬を底に反転していますが、これは終わりの始まりにすぎないのではないか。つまり夜明けどころか、我々はまだ黄昏を迎えたばかりで、株式、債権、不動産、暗号資産、コモディティ等のリスク資産の夜はこれからが本番なのではないか、という思いが拭いきれないでいたからです。

 

 同じ8月5日、隻眼孤高の投資家マイケル・バーリも「コロナ禍でなじみの愚かさは、まだ死んでいない」とツイッターに投稿しました。

 また、ラリー・サマーズやジェフリー・ガンドラッグをはじめとして、超緩和的な金融・財政政策への反動が深刻な景気後退をもたらすと警告する論者は枚挙に暇がありませんが、仮に彼らの予想が的中することになれば、超緩和的な金融・財政政策の先頭を突っ走ってきた日本社会は、どの国・地域よりも過酷な代償の支払いを求められることになるでしょう。

 しかし、それでも日本社会が滅亡するわけではありませんし、希望がなくなるわけでもありません。次回からの投稿では、1980年代以降、日本社会に何が起こったのか、そしてこれから何が起ころうとしているかについての与太話を披露したいと考えています。

 

 最後に、日本銀行に勤務したこともあるという寮の先住者が遺した一文を紹介したいと思います。

『21世紀は希望の世紀か? しかり、 希望の世紀だ。21世紀は希望の世紀でなければならない。私たちがそうしなければならない』

”<主体>の世界遍歴 - 八千年の人類文明はどこへ行くか“ (いいだもも、2005年、藤原書店)

 

 

帰属家賃と消費者物価指数

 今年1月に投稿した”福祉は住宅から始まる”でも紹介したエミン・ユルマズ(野村證券、複眼経済塾)の次のような一文を目にして以来、消費者物価指数と住宅価格の関係がずっと気になっていました。

『日本経済は長期にわたりデフレが続き、物価は上がらないという見方が投資や消費の先送りにつながってきました。日銀が掲げるインフレ目標2%は達成が難しいとみられています。しかし、そもそも本当に日本はデフレの状況下にあるのでしょうか。

 政府統計によると、軽自動車の平均価格は過去10年で5割近く上昇。東京カンテイ(東京・品川)がまとめた中古マンション平均希望売り出し価格(70㎡換算)は、東京都心6区で8月まで過去最高値を更新しました。人生の2大消費アイテムである住宅と自動車価格が上昇している以上、一部でインフレが起きていると言えます。

 一方、厚生労働省の賃金構造基本統計調査によると、昨年の一般労働者の平均月例賃金は、2011年比でほぼ横ばいにとどまっています。賃金が変わらない以上、価格上昇が続く住宅と自動車を購入するには、他の消費を削るしか方法はありません。すると国内消費は伸びず、他の品目でのデフレは免れません。インフレが起きていないのではなく、インフレが間違った方向、「資産」において起きているのです。

 金融緩和に伴うカネ余りはモノのインフレを引き起こすことなく、資産インフレを作り出し、格差を拡大させただけでした。その意味で私は、世界的な金融緩和政策は見直されるべきだと考えています』

 日本社会は1980年代後半から1990年代初頭にかけても不動産価格の高騰を経験しましたが、翁邦雄(日本銀行京都大学等)・白川方明(日本銀行総裁京都大学等)・白塚重典(日本銀行慶應義塾大学等)による日本銀行金融研究所ディスカッション・ペーパー”資産価格バブルと金融政策 - 1980年代後半の日本の経験とその教訓”(2000年9月)が述べているように、消費者物価指数でみる限り、物価は落ち着いていました(ただし、1989年以降は消費税導入の影響により緩やかに上昇)。

https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk19-4-9.pdf

バブルが発生した当時の状況を思い起こしてみると、前述のとおり日本銀行はインフレ懸念や金融緩和の行き過ぎとみられる現象に対して、比較的早い段階から懸念を表明していた。また、そうした懸念は当時、日本銀行だけでなく若干のエコノミストからも表明されていた。しかし、物価指数でみる限り物価は落ち着いており、インフレ懸念論者は自らが表明していた「インフレ懸念」 と「物価の安定」という現実とのギャップに苦しんでいた。さらに、資産価格の上昇についても、それがどのような意味で問題を引き起こすのか、共通の理解は存在していなかった

(図表:総務省消費者物価指数」より参議院予算委員会調査室が作成)

 不動産市場にバブルが発生していたにもかかわらず、なぜ消費者物価指数は落ち着いていたのでしょうか。

 そこで消費者物価指数における住宅関連支出の取り扱いについて、2021年2月22日に総務省統計局物価統計室が作成した”消費者物価指数(CPI)の2020年基準ウエイトについて”で確認したところ、2019年時点において、大分類「住居」(2,012/10,000)は「食料」(2,628/10,000)に次いでウエイトが大きく、なかでも小分類「持家の帰属家賃」は全ての小分類項目のなかで最大のウエイト(1,450/10,000)を占めていました。

https://www.soumu.go.jp/main_content/000734834.pdf (p14~p15)

 「持家の帰属家賃」とは、『国民経済計算における帰属計算の一つ。もともと実際に家賃の受払いを伴わない自己の持ち家についても,通常の借家や借間と同じようなサービスを生んでいるとして評価した帰属計算上の家賃』(ブリタニカ国際百科事典)ですが、問題はどうやらその推計方法にあるようです。

 帰属家賃の推計方法については、”季刊住宅土地経済”の2013年春季号No.88に掲載された清水千弘(日本大学)の優れた研究”持ち家の帰属家賃の測定”があり、”季刊住宅土地経済”編集部がその要点を紹介しています。

https://www.hrf.or.jp/app/Display/popup/?table_id=table2&id=88

 論文についてはhttps://www.hrf.or.jp/webreport/kikan_bn/pdf/jyukei_088.pdf (p10~p19)を参照。

住宅が日本の国富の大きなシェアを占めていることはよく知られている。このため、住宅の価値を的確に把握することが国富を知るうえで重要となる。その方法として、経済統計では帰属家賃を求めて計算している。帰属家賃とは、持ち家に対して、所有者が自分の住宅に対して払うと想定される家賃額である。持ち家が賃貸住宅として市場に出された時の家賃額ということになる。もちろん、そのような家賃は実際には払われないので、推計するしかない。

 清水論文(「持ち家の帰属家賃の測定」)では、適切な持ち家の帰属家賃を推定する方法を探求している。帰属家賃を推計する主な方法としては、近傍の賃貸住宅の家賃から推計する近傍(等価)家賃法と住宅を保有することの機会費用から推計するユーザーコスト法とがある。

 清水論文では、近傍家賃法で推計した結果、推計された帰属家賃と県民経済計算による持ち家の帰属家賃とは、時期によっては10倍の乖離があったことを示している。この理由として、賃貸住宅市場と持ち家市場における住宅品質に差があることに加えて、住宅価格と家賃の変動は完全には連動しておらず、結果としてバブル期など価格変動が大きい時には大きく乖離してしまうことを指摘している。また、ユーザーコスト法では、資産価格変動に大きく依存してしまい、不自然に負の値になったりする問題がある。

 そこで、清水論文では、ディワートにより提唱された、両方の方法を折衷させた機会費用を用いる方法で推計した。ディワートの方法とは、ユーザーコストと近傍家賃法による家賃の最大値を機会費用と考えて、計算する方法である。ユーザーコスト法による不自然な負の値の弊害を減じることができるのが利点となっている。

 ただ、この方法でも時期によっては3.5倍の乖離が見られることを明らかにしている。国民経済計算や消費者物価統計で大きなウェイトを占める帰属家賃が、いかに推計が困難な対象であるかを明らかにしたという意味で画期的な研究である。

 そもそも、帰属家賃という概念は、市場で観測される統計量ではなく、あくまで仮想的な概念である。そのため、正解がない問題に対して、精度を求めねばならないという難しい状況にある。その意味では、経済統計において、帰属家賃よりも信頼性の高い別指標を用いるほうが良い可能性を示唆しているとも言える。また、学問的には、まだ大きく改善の余地がある挑戦しがいのある分野であるとも言えるだろう。

 今後のさまざまな討議を呼び起こす可能性のあるエポックメイキングな論文であると言えよう

 要するに、日本が消費者物価指数の算定に当たって採用している、賃貸物件の家賃から帰属家賃を推計する「近傍(等価)家賃法」には問題が多く、実際よりかなり低めに推計されていると指摘しているのです。2022年4月の消費者物価指数は前年同月比で+2.1%と、13年半ぶりに日銀が物価安定目標として掲げる+2%を上回りましたが、近年におけるマンション価格や建築単価の高騰を踏まえれば、実際の帰属家賃は大幅に上昇している可能性が高く、従って消費者物価指数(総合)の上昇幅は更に大きくなっていると推測されます。

 

 日銀は5月23日、3月に開催した「コロナ禍における物価動向を巡る諸問題」に関するワークショップの概要を公表しました。

https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2022/data/ron220523a.pdf

 ワークショップは、2つのセッションと1つのパネルディスカッションから構成されていますが、第2セッションのテーマは”消費者物価におけるサービス価格 - 家賃等を中心に”で、帰属家賃の問題を中心に討議されました。

 まず、報告者である岩崎雄斗(日本銀行企画局企画役)は、『米欧の考え方に倣った計測方法に従うと、わが国の消費者物価上昇率は現状よりも高めとなり得る』とした上で、わが国が採用している「近傍家賃法」の問題点を整理しています。また、ユーロ圏で導入が予定されている「取得額測定法」を紹介し、『同手法は、住宅価格をより直接的に反映する方法であり、その長所として、人々の実感により適合した指数を作成できる可能性や、規制などの賃貸市場の構造に影響されにくいことを指摘した。同手法をわが国に適用した場合、住宅価格が上昇している足もとを中心に消費者物価の前年比がはっきりと上振れる可能性』を示唆しました。

 先ほどの清水は指定討論者として登場し、『住宅サービスの計測が国際的に注目されている理由として、ウエイトが大きい点や、住宅市場は資産市場と財市場の最も重要な結節点と認識されている点を挙げた。・・・わが国では近傍家賃法は必ずしも望ましくない可能性があると指摘したうえで、代替的な推計方法として「機会費用法」を紹介した。同手法は、近傍家賃法で推計された費用と「ユーザーコスト法」で推計された費用の大きい方を持家の機会費用とみなす方法であり、理論的 には最も望ましいとされているユーザーコスト法の実務的な欠点を補うものだ』と述べています。

 また、外部参加者である植田和男(東京大学共立女子大学)が、『理論的には、リスクプレミアム等が低下しているもとでは、住宅価格の上昇と家賃の低下は併存し得る』と発言したのを受けて、『持家市場と賃貸市場が分断されていることが背景にあるとの見方を示したうえで、こうした分断があるもとでは、近傍家賃法の適用は望ましくない』と強調しました。

 翁・白川・白塚たちの問題提起から30年余り、ようやく資産市場と財市場との間に横たわるブラックボックス帰属家賃の推計方法に光が当てられた意義は極めて大きいと言えるでしょう。

 ところで、問題の多い「近傍家賃法」を採用していることにより消費者物価指数(総合)が実際より大幅に抑制されているという認識が広がれば、当然の帰結として、金融政策にも大きな影響を与えることは言うまでもありません。黒田総裁や若田部副総裁の任期切れが迫っているこのタイミングで、帰属家賃の推計方法をワークショップのテーマに選んだのは、あるいは政策転換に向けた布石なのかもしれません。

 というのも、次期総裁の有力候補の一人とされる雨宮正佳(日本銀行副総裁)が、ワークショップの開会挨拶を以下のように締めくくっているからです。

https://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2022/data/ko220329b1.pdf

日本のインフレ率が米国を下回る状況は、1990 年代後半のデフレ期から始まった現象ではなく、第2次オイルショック期以降、一貫して続いている・・・1980 年頃を境に、日米間でインフレ率の逆転が生じ、その後も1980 年代後半の景気過熱期も含め日本のインフレ率が米国をコンスタントに下回り続けたのはなぜかについて、腑に落ちる説明はなかなか得られていません。 

 コロナショックに伴う各国間の物価変動の違い、そして長期的にみた日米間のインフレ格差などをみるにつけ、物価に関する我々の知識は、依然として限られているという認識を新たにします。コロナショック以降、中央銀行の間では、「Humble」であるべき、という言葉がキーワードとなっており、こうした物価に対する私の認識は、各国当局者の間でも概ね共通しているのではないかと感じています。わが国の物価は米欧対比なぜ弱いのか、その要因は構造的なものか、それは将来変化しうるものか、といった点について、従来の見方にとらわれず、現実のデータに「謙虚」に向き合うことが重要だと思います

 「日米間のインフレ格差が何に起因するのかも分からずに異次元緩和を推し進めてきたのかよ!」とツッコミを入れたくなるのはさて置き、現実に謙虚に向き合うことによって、金融政策の速やかな転換が図られることを期待したいと思います。